2015年7月26日日曜日

再挑戦の機会を与えられる身体

いつもの日本聖書協会の愛読こよみから。まずはテキストを写しておこう。

2015年7月26日(日) キリストを模範として

「わたしには、すべてのことが許されている。」しかし、すべてのことが益になるわけではない。「わたしには、すべてのことが許されている。」しかし、わたしは何事にも支配されはしない。食物は腹のため、腹は食物のためにあるが、神はそのいずれをも滅ぼされます。体はみだらな行いのためではなく、主のためにあり、主は体のためにおられるのです。

神は、主を復活させ、また、その力によってわたしたちをも復活させてくださいます。

あなたがたは、自分の体がキリストの体の一部だとは知らないのか。キリストの体の一部を娼婦の体の一部としてもよいのか。決してそうではない。娼婦と交わる者はその女と一つの体となる、ということを知らないのですか。「二人は一体となる」と言われています。しかし、主に結び付く者は主と一つの霊となるのです。

みだらな行いを避けなさい。人が犯す罪はすべて体の外にあります。しかし、みだらな行いをする者は、自分の体に対して罪を犯しているのです。

知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。

(コリントの信徒への手紙一 6:12-20)

***

いろいろなことが言われているけれども、ひとつのこと、「からだ」の意味を考えた。

キリスト教では、身体の自然な発露、つまり、思うまま、望むままを、そのまま良しとはしない。むしろ、体を媒介として愚劣な行為へと転がり落ちていきかねない存在であることが大前提になっている。ここのみだら云々、娼婦云々は、そうしたことを反映している。

しかしそれは、性的なもの、身体的なものがそもそも何となくけがらわしいということではなく、まして身体的なものがそれ自体として悪であるというような、キリスト教思想自体がかつて古代ギリシャの思想の影響の中で陥ったような考え方ではない。むしろ逆であって、身体こそ、人間の内と外を分けるものであることが明示されているというのが興味深い。「人が犯す罪はすべて体の外にあります。しかし、みだらな行いをする者は、自分の体に対して罪を犯しているのです」というとき、むしろ身体はその人の「うち」の問題であり、性関係がその人自身を、交わる相手と深いところで結びつけてしまうから、だから間違った結び付け方をしてはいけない、かりそめの相手に気軽に身を預けてはいけない、という警告がある。

パウロはキリストを信じる者たちは自由なんだ、ということを伝えてきた。しかし、この手紙の受取人であるコリント教会の人々の多くは、それを「だから別に好きなように生きていいんじゃね?」と取ったようだ。ところが、パウロは「好きなように生きる」ことは決して「自由」ということではない、と考えた。自分の人生を振り返り、あるいは他人の生き方を見て、すぐに気付くことではないか。好き放題に生きている人間がどんなに何かに取りつかれ、縛られているかを。それを何となく知っているから、たいていの人はある程度自制して生きる。また本当にのびやかで自由な生き方をしている人々は、たいていしっかりした目標や理想をもって、そこに向けてある種の自分への厳しさを持っている。どうやら、身体というものは、正しい方向付けと関係性の中でこそ、本領を発揮でき、それが自由というものであるようだ。そこに至らないと、常に好きなように生きているようであって、よどんだ生き方になってしまう。

パウロはしかし、いわば理だけで話を終えていない。彼は行動する神がこの世界でもたらしたという奇跡を語る。それは「復活」である。キリストは復活させられた、私たちも彼に結ばれていれば復活する。

この箇所の警告はどうやら実際にこの手紙の送り先であるコリントの教会ではリアルだったようだ。実際にもう失敗をしてしまった人々がいるということだ。それはこの手紙のほかの箇所でも示されている。極端なケースとして父親の後妻(つまり義母)とデキてしまう、というところまで書かれている。だからこそ、この箇所は意味があるように思える。これらの言葉はただ宗教的なきれいさ、きらびやかさとして、現実離れに書かれているのではない。そういう無残な失敗に向かって、もう一度やり直せる、人間の身体は、間違ってしまった後でも、よみがえりをもたらす神に手を引かれるようにして、もう一度「神の栄光を表す」べく再挑戦の機会を与えられている。

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