2015年7月19日日曜日

黙想:こんなふうに確信を持てる日は来るのだろうか…

今朝読んだ聖書の中で、特に日本聖書協会に掲載されたものについて。
2015年7月19日ダニエル書6:16-24

敬虔なダニエルはペルシャ王の覚えめでたい忠実な臣下であったが、周囲の妬みを買った。彼らはダニエルを陥れようと王をおだてて、王以外のものを礼拝しない、さもなくばライオンの穴に投げ込む、という勅令を出させた。それでもいつものように日に3回の祈りを欠かさなかったダニエルはライオンの穴に入れられたが、神によって守られた、という話。

恐らく、ライオンの穴に入れられたのに大丈夫だった、ということが奇跡として語られているようにも読めると思う。ただ、情景を思い浮かべるとき、私なら、もし今の瞬間ライオンが私を食い尽くさなかったとしても、ライオンを目の前にして、これからも大丈夫、と思えないのではないか、と思った。

結末の部分にこうある。

「ダニエルは引き出されたが、その身に何の害も受けていなかった。神を信頼していたからである。」

私は今、ひと月先の旅行の準備をしている。数日前にセブとマニラの旅館の問い合わせをしたが、セブの方は返事が来ず(数日待ってやり直す予定)、マニラの方は初日だけ宿がまだとれていない(その日は別のところに行く予定に変更)。まだひと月あるし、もしかして飛び込みで行ってもたぶん大丈夫だろうに、それでもなんだかとても気になるし、思い出すとそわそわしたりする。地域研究者にして、46歳にもなり、信仰暦も25年を超え、フィリピンにも何度行ったかしれない(セブの旅館の予約は初めてだが)のに、このビビりっぷりは、信仰がどうの以前のことかもしれない(笑)。

そんな自分を振り返って、地位をはく奪され、死の淵に追い込まれた彼が、「神を信頼していた」ということの凄みを感じる。以前この箇所の直前を読んだ時には、祈ったことが露見すれば死ぬ、と勅令が出た日に、いつものように(誰からでも見えるところで)祈った彼の凄さを思ったことがあったが、そこともつながるだろう。

一体このようないわば悟りの境地みたいな確信を持てる日が、こんな肝っ玉の小さい自分にも来るのだろうか、と思ってしまう。ダニエル書を読むと、彼は幼い日に祖国の滅亡によって外国に捕囚されたところから、度重なる試練を超え、その支配者バビロン自体の滅亡と新たな支配者ペルシャの統治、という激動を超えて生かされてきた。彼の人生は、自分も弱いかもしれないが、世の中の方も定めなきものであり、そういう世界の中に確かに人間を峻厳に、かついつくしみ深く支えてくれる偉大な存在を体感してきたという物語である。

だから、私も、ささやかで名もなき歩みではあるけれども、その中で神の方から現れてくださる、と期待して生きていけばいいのかな、と思ったりする。

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