2015年7月13日月曜日

今朝の黙想:主は近い、と信じ切れないが…

今朝はこちらを読んだ。というか音声があるので、聞きながら読んだ。

「さようなら」は言わない

このテキストで思ったこと。

私にとって、信仰の「確信」というのが、いつも弱いところだと思う。神が守ってくださる、導いてくださる、正してくださる、とか、どういう人とどうであってどういう感じになっていても、この出会いは益とされる、とか、信じようと思うたびに、もしそうでなかったら、という思いがよぎることが多い。なので、結末は分かっている、と口では断言するのだろうが、ひょっとして、死んだ後なんちゃってがあるのでは(あるいは死んだ後など何もなく死んで終わってしまうのでは)、という思いは消えたことがない。

もし疑わないようになればずっと楽なのかもしれない。でも、こればかりは自分の心の問題だし、そもそも目に見えぬ神が、私たちが死んだ後に私たちをどうされるのか、など確かめようもない。聖書にある約束、聖書を大事にすると決めた教会が語り続けてきた約束を信じることにするくらいしかない。私が思春期に苦しんだのは、心身の弱さの中で、いずれ滅びていく自分がどのように希望を持ち、平安を回復するか、だったと思う。たしかに大学1年生の時に、イエスを主と信じるようになってから、人生がそもそも根っこから定まらないような、暗くよどんだある種の根本的な不安を感じることはなくなった。けれども、基本的に経験したことのないしんどいことを初めて経験する場合に期待よりは不安が大きい自分は、腹をくくり切れていない人間だと思う。こういうのを不信仰というのかもしれない。

しかし、今日の箇所、ピリピ4:1-9を読むと、将来を心配せずに神を信じ、人を愛する明るい生き方を進める光景は、一人の心の中の状態の問題としてよりも、共に生きる仲間たちの中でのこととして描かれている。そこには多くのそれぞれ生きながら、しかし実のところともに、共通の生を生き、共通の目標を持つ人たちが描かれている。

パウロは手紙の送り先にいる人たちとすでに親しい関係を築いており、彼らへの思いやりを繰り返し言い表す。そして、彼が勧める生き方は、こんな感じ。

・主にあって堅く立ちなさい。
・主にあって一つ思いになってほしい。
・このふたりの女を助けてあげなさい。彼らは、「いのちの書」に名を書きとめられているクレメンスや、その他の同労者たちと協力して、福音のためにわたしと共に戦ってくれた女たちである。
・あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい。あなたがたの寛容を、みんなの人に示しなさい。
・何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。
すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて純真なこと、すべて愛すべきこと、すべてほまれあること、また徳といわれるもの、称賛に値するものがあれば、それらのものを心にとめなさい。

そして最後に、
・あなたがたが、わたしから学んだこと、受けたこと、聞いたこと、見たことは、これを実行しなさい。そうすれば、平和の神が、あなたがたと共にいますであろう。

仲間たちがいて、向上を目指す。また師匠がいて、その模範から学ぶ。

そしてそれらの言葉の真ん中にこの言葉がある。
・主は近い。

神の名のもとに、イエスの名のもとに、真摯に生きようと生き生きと務め、お互いに助け合う営みの真ん中に、本当は目に見えないはずの主なるイエスが近く見える。25年以上の教会生活を振り返ると、それは決していつもキラキラしたものではなくて、しばしばイライラさせられるような、時には残念ながらうまくいい関係を築けずに、この箇所のユウオデヤとスントケのように争ってしまう。砂をかむような思いでいることも少なくない。ぎくしゃくしたこともたくさんある。うんざりするほど平凡な、誤りと偏見が交錯する普通の人間たち(自分も)の集まり、という側面を、教会は持ってきた。だから、宗教熱心な人たちの中には、こんなものやってらんない、自分だけ、自分たちだけ、そういう特別に霊的な人間だけで集まって頑張る、というふうになることもよくある。もちろんそういうふうにしていろいろなことが改革されることもあるけれども、やがてそうやって出てきた運動も、同じような問題に直面する。

しかし、もしこの人間の世界に救いが、また救いをもたらすものが来ているのだとしたら、たぶんそんなふうな場所のただなかに見いだせない限り、現実味がない。忍耐強く、そう信じることに決めてしまえるかどうかなのかな、と思う。

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