2015年7月20日月曜日

黙想:兵士というたとえ

今日はこちらを読んだ。
忠実な兵役(『デイリーブレッド』 2015年7月20日)

忍耐をもって生き抜こう、というメッセージに、基本的に異存はない。ただ、メッセージからすれば本筋からやや外れるかもしれないけれど、キリスト教における「兵士というたとえ」について思いが及んだ。

1.この記事にあるC・S・ルイスの兵役に関する厳しい言葉(ただ、率直な実感であろう)を読む時に、二つの方向に思いが行く。

(a) (1) 一つは、長年特にこの国にいて聞いてきたことで、だから戦争や軍隊は非人間的であり、こういうものは永遠に完全に放棄すべきなのだ、という声である。それは一方では、聖書が提示するビジョン、敵をも愛するという現在生きるビジョンと、やがて剣を鎌に変える、という将来の完全平和の天国的なビジョンを想起させる。そこから見ると、兵士の比喩は、あくまでごく限定的に用いられるべきものとなるだろう。実際、今回の聖書箇所では、

  2:3キリスト・イエスの良い兵卒として、わたしと苦しみを共にしてほしい。
  2:4兵役に服している者は、日常生活の事に煩わされてはいない。
  ただ、兵を募った司令官を喜ばせようと努める。

とあり、比喩の目的が「日常生活のことに煩わされてはいない」「司令官(つまりはここでは司令官が徴募するように一人一人の名を呼んで集めたキリストの比喩と読める)を喜ばせようと努める」の二つに限定されている。
 日本のキリスト者の多くは、例えば欧米のキリスト教がしばしば軍関係者と極めて近しく、しばしば軍隊的な比喩が説教などでも用いられることに、抵抗を感じることは少なくないだろう。ある意味でそれは理由のあることだと思う。「聖書と戦争」はそれ自体大きなテーマで簡単に論じきれないけれども、一つの問題は時にこのテーマが聖書にあるからという理由で乱用されてきた面があるのではないかということだ。もちろん、どこまでが応用でどこからが乱用か、というのは、「「正典」を「解釈」する」ことに主眼のあるキリスト教という宗教の持つ基本的な難問であるとも思う。

 (2) ただ、戦争なんていらないから武器も兵士もいらない、といった声が特段の哲学的な葛藤の中で少数派として、周囲の好機の目にさらされながらあらわれる多くの社会と異なって、日本ではそれは、社民系、リベラル系の場で育てば、まるで常識のように教わり、空気のように身近にあることでもあるだろう。それは戦後日本の護憲派の中で形成された多数派的政治の論理の中にあるように見える。つまり、それは敗戦の中で勝者アメリカが持ち込んだ(押し付けたというのは単純化が過ぎると思うが)枠組に乗った「勝ち組の論理」として始まり、憲法と論壇と学校教育をてこに政治的に「主流」として生き延びてきた論理であって、諸外国における絶対平和主義のような厳しい鍛錬の中でそれでもあえて、というのではないように見える。そこでのキーワードは「みんな」がそう思うはず、そう思わない人は「おかしい」という多数派的な論理である。そしてその場合、こういう比喩は排除すべきものになるだろう。
 確かに民主主義政治には多数派原理があり、政治過程において利害を同調性するか、数をどう合わせるかは重要なことでもある。しかし、前提にあるのはそれぞれがある程度自分の立場、利害、理念について自分(あるいは身近な同志の自分「たち」)で考えて語り、共感或いは反発し、連帯あるいは反目して動く一人一人の「市民」ではないか、というと、あまりに定型的な考えすぎるのかもしれないが、どうも私はそういうことにこだわってしまう。「「私たち」語り」が、そこに取り込まれることになっている人々への同調圧力を利用している、ということに、私は抵抗を感じてきた。それが私の博士論文執筆の原動力でもあったし、今もこのことにこだわり続けてしまう。もし護憲派の運動が、また教会の中で護憲派的な主張を信仰の名でもたらそうとしている人たちが、この点について自覚的でないのであれば、私は声を上げ続けなくては、と思ってしまう。

(b)もう一つは、テキストの中身とのかかわりである。今回の聖書箇所全体が、キリスト教徒に鍛錬の必要を訴えている。問題は、もしかすると日本の戦後の平和主義は、軍事的なものの放棄と共に、重大な目的のためには鍛錬が不可欠であることをも軽んじる文化を形成してきてしまった面があるのではないか、ということだ。
 こう書くと自分の中にもある種の反発の声が響く。曰く、それは右翼の論理だろう。修身や教練の類を美徳としてきた人たちに賛同するのか、と。彼らこそ、日本を無謀な戦いに追いやった張本人ではないか、と。
 或いはそうかもしれない。しかし、そういうふうにいうときに、どうも二元論的な感じになっていないか、と問いたくなってしまう。マッチョな軍国主義でも、ヘタレた平和主義でもない、己と隣人と社会との再生のために鍛錬を積み重ね、行動するような生き方が、本当は求められているのではないか、と考えてしまう。それは自身の問題でもあるし、子育て中の父親としての悩みでもある。

ただ、もう一度聖書の箇所に戻ってみれば、この鍛錬の問題は複数の比喩からなっていることが分かる。一つは競技、もう一つは労働である。私たちはその広がりの中で、鍛錬についてより深く、バランス感覚を持って黙想できるだろうとも思う。

 2:5また、競技をするにしても、規定に従って競技をしなければ、栄冠は得られない。
 2:6労苦をする農夫が、だれよりも先に、生産物の分配にあずかるべきである。

***

(おまけ) ここまで書いて、そもそも、とも思う。古代の軍隊と近代の軍隊ではそもそも徴募のあり方や組織管理のあり方が随分違う。古代でも団結して自分たちの町を守るような場合と、帝国の傭兵として傭兵隊長に雇われて治安維持や戦争に従事するの(がここの比喩のイメージだろう)とで随分違っただろう。近代国民国家の下での徴兵や志願兵と大きく異なるのは言うまでもない。なので、どの程度引きつけて読めるのかの問題があるだろう。

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