2015年7月30日木曜日

(脱線)無料で聴けるクラシック音楽の公式サイト集(随時更新)

最近有料でクラシック音楽を聴くサイトとの契約を終えた。

それでもクラシック音楽を聴きたい私は、もう既に、ウェブ上には広報を兼ねた無料の音源がいろいろ公開されていることに気づいていたので、仕事の合間などに息抜きに音楽を聴くならそういうところを活用しようと改めて思っている。

で、忘れないようにリストを作っておこうと思った。クラシック音楽が好きな人は少数派だとしても、そういう人のお役にたてれば、というのもある。

特におすすめのサイトに*をつけておく。

1.解説のついたクラシック入門、勉強にもなりそうなサイト。

クラシック音楽へのおさそい~Blue Sky Label~
著作権切れの音源についてはこちら。少々癖のある管理人さんが、豊富な音源を丁寧に吟味しつつ惜しみなく注ぎ込んできたが、最近は健康を害されたとのことで更新が中断されている。名盤の名高いものも多く、1950年代後半の音源からはステレオ期に入り、音の良いものもたくさんある。1967年までの録音が著作権フリーになっているとのこと。

Classic Manager
著作切れの音源を公開している英語のサイト。韓国人の運営しているウェブサイトと記されている。上のサイトと比べると録音についての情報等が少なく、また通常の分野や演奏家によるカテゴリー分けなどがされていないので見づらさはある。最近登録が必要になり、使い勝手が悪くなった印象。しかも有料コンテンツもあるというので、ビジネスでやり始めたことがよく分かる。奇妙なことだが、上記Blue Skyのような管理人の個性と趣味が強く反映され、その長年の活動の履歴が読めるようになっているウェブサイトの方が、このサイトのような客観的な装いのウェブサイトよりも信用できるように感じられる。それはおそらく、著作権者ではない人が、期限が切れたとはいえ他人の著作物をどう利用するのかのスタイルの問題かと思う。趣味で作ったアーカイブを趣味故に惜しげもなく公開しているBlue Sky Labelのyungさんには、底知れないお人よしさの奥に誠意と善意を感じるから信頼できるのかもしれない。このウェブサイトに同様のことを感じることはあり得ない。サービスと割り切り、便利さとバランスを重視して、ちょっとの個人情報と引き換えにこちらに登録し利用するかどうか。

東京アカデミーオーケストラ 〜指揮者のいない室内オーケストラ
慶応オケ、早稲田オケの卒業生を中心とした、指揮者を置かないアマチュア・オーケストラ。プロほどの精度はない(とはいえアマチュアとしてはかなりのレベルでは)代わりに、その独特の集中力と、仕事でない故か時に発揮される強烈なノリに驚かさせられる。過去の演奏会記録から、高音質の音源がたくさん聞ける。

PTNA(全日本ピアノ指導者協会)によるピアノ音楽のウェブ事典で、YouTubeのPTNA公式サイトのものを中心に極めて幅広く多くの作品の音源が紹介されている。ピアノソロの曲だけでなく、ピアノ協奏曲、室内楽など、ピアノにかかわる様々な作品が取り上げられている。その音源はPTNAの公開録音やコンクールのものが多く、世界的に名の知れた演奏家の音源も含まれている。


2.オーケストラの公式サイト

CSO SOUNDS & STORIES
シカゴ交響楽団の公式の音源サイト。期間限定だが豊富な音源から聴ける。

New York Philharmonic: Watch & Listen
ニューヨーク・フィルの公式の音源サイト。こちらも豊富な音源から聴ける。

San Francisco Symphony Stream Concerts
サンフランシスコ交響楽団の音源サイト。直接聞ける音源は少ないが、専用のラジオ局からのストリーミングもこのページからきける。どちらも音質はとても良い。

Detroit Symphony Orchestra
デトロイト交響楽団の公式YouTubeサイト。
DSO Replay
同じくデトロイト交響楽団の公式動画サイト。

hr-Sinfonieorchester – Frankfurt Radio Symphony
フランクフルト放送交響楽団の公式YouTubeサイト。豊富で長時間の精度の高い演奏が聴ける。

NDR Elbphilharmonie Orchester
北ドイツ放送エルプフィルハーモニー交響楽団(北ドイツ放送交響楽団として知られてきたが、最近改称)のYouTube公式サイト。ダイジェストが多いが、全曲演奏もかなりある。

SinfonicadeGalicia
ガリシア交響楽団ということになるか。公式YouTubeサイト。セーゲルスタム、スクロヴァチェフスキー、マゼール、ユロフスキ、ポリーニ父子(息子さんが指揮者なのですね)などの錚々たる指揮者による演奏が並び、いくつか聞く限り充実の演奏を聞かせているので、日本であまり知られていないにせよ一定の水準の団体と言っていいと思う。

Royal Concertgebouw Orchestra
ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団の公式YouTubeサイト。主にダイジェストだが、それでもかなり聞きごたえがあり、またいくつかの長い作品の全曲演奏もある。

London Symphony Orchestra

GSOplay
スウェーデンのエーテボリ交響楽団の公式動画サイト。シベリウス演奏などで名高いが、それ以外でも非常に精度の高い優れた演奏を聴かせる。

RSPOplay
やはりスウェーデンのロイヤル・ストックホルム・フィルの公式動画サイト。こちらもきわめて精度の高い音楽が聴ける。

WDR SinfonieorchesterFreunde
ケルン西ドイツ放送交響楽団・友の会の公式YouYubeサイト。この「友の会」Freundeが長大な作品の全曲演奏をいくつも紹介しているのが面白い。

Guerzenich-orchester Koeln
ケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団の公式YouTubeサイト。

Deutsche Radio Philharmonie
ドイツ放送フィルハーモニー管弦楽団の公式YouTubeサイト。

Symfonieorkest Vlaanderen
フランダース交響楽団ということになるか。公式YouTubeサイト。よく存じ上げないが、聞く限り十分な実力を感じさせる。

Filharmonia Narodowa
ワルシャワ・フィルの公式YouTubeサイト。

洗足学園音楽大学 SENZOKU Video
音大のYouTubeサイトですが、想像以上に高水準な演奏が聴かれます。オーケストラは大御所である秋山和慶さんの指揮による充実した演奏に驚かされたりします。


3.ソリストなどの公式サイト

Henryk Wieniawski
ヴィエニャフスキー・ヴァイオリン国際コンクールの公式YouTube。コンクールでの演奏が中心。

Chopin Institute
ショパンコンクール主催者の公式サイト。コンクールの音源が豊富に紹介されており、コンクールの際にライブ配信も行っている。

Jukka-Pekka Saraste
フィンランド出身の世界的指揮者ユッカ=ペッカ・サラステの公式YouTubeサイト。これほど著名な指揮者個人のサイトでこれだけ聴けようにしてあるのは興味深い。

Nathalie Stutzmann
コントラルト歌手として知られ、近年は指揮活動を展開しているシュトゥッツマンの公式YouTubeサイト。

András Vass
ハンガリーの指揮者の公式YouTubeサイト。200年もの伝統を持つハンガリーのパノン・フィルというオーケストラの指揮者のようで、高名な指揮者イヴァン・フィッシャーの推薦する指揮者とのこと。指揮者もオーケストラも名前を知らなかったが、演奏を聴く限りかなり高水準と感じる。

Anne Akiko Meyers
ヴァイオリニスト、アン・アキコ・マイヤーズさんの公式YouTube。

Luiz Fernando Perez
ピアニスト、ルイス・フェルナンド・ペレスの公式YouTube。アルベニス、グラナドス、ファリャなどスペインの音楽(だけではない)がいろいろ聞ける。

ValentinaLisitsa
YouTubeでの活動が話題になり、メジャーデビューを果たしたというクラシックとしてはやや異色というか新しいタイプのアーチスト。ただ、ピアニストとして正規の教育を受け、コンクール入賞なども果たしてきたという。

小瀧 俊治 オフィシャルウェブサイト
若手ピアニストのみずみずしい演奏が聴ける。

Ysaye Quartet
イザイ弦楽四重奏団のYouTubeサイト。過去にテレビ放送された音源を用いているようだが、きれいな音で見事な演奏が聴ける。

SoundProfessional Boston
クラシック音楽専門の録音技師の方がサンプル(にしてはかなり多い…)を紹介しているサイト。若手演奏家によるピアノ曲、室内楽、声楽などの小編成の演奏がかなり豊富におさめられている。

SiccasGuitars
ドイツのギター商のYouTubeサイトで、ギターの演奏がたくさんある。


4.放送局・レコード会社のサイト

AVROTROS Klassiek
オランダの放送局の公式YouTubeサイト。映像がついて、オーケストラだけでなく、室内楽、独奏など、多くのジャンルの音楽がアップされている。

EuroArtsChannel
DVDなどを扱うEuroArtsの公式YouTubeサイト。この手のサイトとしては驚くほどたくさんの動画が全曲アップされている。特に故クラウディオ・アバドの指揮する演奏動画が豊富にある。

BBC Sounds - Classical
BBCで放送されたクラシック番組が聞ける。

NPO Radio 4 Videoarchief
オランダの放送局による動画の配信。オランダ放送フィルの音源などが高画質、高音質で視聴できる。
Luister Concerten
同放送局のコンサート音源。アップされている期間が短いが、更新も多く、高音質で新しい演奏をふんだんに聴ける。

BR-Klassik Concert
バイエルン放送のコンサート動画配信サイト。NPO Radio 4と同様に高画質、高音質なのに驚かさせられる。

*SWR Classic
南西ドイツ放送のクラシック音楽動画配信サイト。映像、音ともとてもきれい。

ARTE Classical
フランスの放送局のクラシック音楽動画配信サイト。

99.5 WCRB Classic
アメリカはボストンの放送局のクラシックページ。ボストン交響楽団などの音源を配信している。

*Symphony Cast
American Public Mediaによる管弦楽団のクラシック音楽コンサート音源の配信。通常各コンサートは二部に分けてある。様々の一流オーケストラの演奏が聴ける。

OTTAVA
クラシック音楽のさわりを軽やかなDJと共に送る「気軽にクラシック」なウェブラジオ局。

Collins Classics
このレーベルで過去出された130ものアルバムの音源が、インターネット上で公式に公開されていたのに気づいて絶句。YouTubeサイトはこちら。
Collins Classics

Brilliant Classics
メジャーレーベルの古い音源を格安でまとめて販売することで知られてきたレーベルだが、同時に最新のオリジナルの録音をコンスタントに出し続けてきた。この会社が、自社のオリジナルの録音をふんだんにYouTube公式サイトで公開している。上記のCollinsに並ぶ衝撃の大盤振る舞い。
そのBrilliantが宣伝を出しているので、同系統と思われるのがこちら。
Piano Classics

Naxos Japan (YouTube)
有料で音源配信しているNaxosによる、YouTubeによる無料音源の配信。短い曲や、長い曲の一部がいろいろ聞ける。

France musique
ラジオ・フランスの音楽動画サイト。かなりたくさんの動画がアップされている。
YouTubeのサイトもある。
France Musique

クラシック・ラジオ
インターネット上のクラシック音楽を放送するラジオ局のリンク集。非常に多く、私もまだほとんどチェックしていない。

5.特定の作曲家の作品などのサイト

All of Bach
オランダのバッハ協会による、バッハ演奏の紹介サイト。惜しげもない動画の紹介にただただ驚く。YouTubeサイトはこちらで、こちらの方が見やすいかもしれない。
Netherlands Bach Society

Handel and Haydn Society
ヘンデル・ハイドン協会の公式YouTubeサイト。

Anton Bruckner: Download of the Month
アメリカ・ブルックナー協会のホームページ。ブルックナー作品のディスコグラフィを掲載したサイトだが、そこに毎月ダウンロードできる音源が追加されている。

(気が向いたときに随時追加します)

2015年7月26日日曜日

再挑戦の機会を与えられる身体

いつもの日本聖書協会の愛読こよみから。まずはテキストを写しておこう。

2015年7月26日(日) キリストを模範として

「わたしには、すべてのことが許されている。」しかし、すべてのことが益になるわけではない。「わたしには、すべてのことが許されている。」しかし、わたしは何事にも支配されはしない。食物は腹のため、腹は食物のためにあるが、神はそのいずれをも滅ぼされます。体はみだらな行いのためではなく、主のためにあり、主は体のためにおられるのです。

神は、主を復活させ、また、その力によってわたしたちをも復活させてくださいます。

あなたがたは、自分の体がキリストの体の一部だとは知らないのか。キリストの体の一部を娼婦の体の一部としてもよいのか。決してそうではない。娼婦と交わる者はその女と一つの体となる、ということを知らないのですか。「二人は一体となる」と言われています。しかし、主に結び付く者は主と一つの霊となるのです。

みだらな行いを避けなさい。人が犯す罪はすべて体の外にあります。しかし、みだらな行いをする者は、自分の体に対して罪を犯しているのです。

知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。

(コリントの信徒への手紙一 6:12-20)

***

いろいろなことが言われているけれども、ひとつのこと、「からだ」の意味を考えた。

キリスト教では、身体の自然な発露、つまり、思うまま、望むままを、そのまま良しとはしない。むしろ、体を媒介として愚劣な行為へと転がり落ちていきかねない存在であることが大前提になっている。ここのみだら云々、娼婦云々は、そうしたことを反映している。

しかしそれは、性的なもの、身体的なものがそもそも何となくけがらわしいということではなく、まして身体的なものがそれ自体として悪であるというような、キリスト教思想自体がかつて古代ギリシャの思想の影響の中で陥ったような考え方ではない。むしろ逆であって、身体こそ、人間の内と外を分けるものであることが明示されているというのが興味深い。「人が犯す罪はすべて体の外にあります。しかし、みだらな行いをする者は、自分の体に対して罪を犯しているのです」というとき、むしろ身体はその人の「うち」の問題であり、性関係がその人自身を、交わる相手と深いところで結びつけてしまうから、だから間違った結び付け方をしてはいけない、かりそめの相手に気軽に身を預けてはいけない、という警告がある。

パウロはキリストを信じる者たちは自由なんだ、ということを伝えてきた。しかし、この手紙の受取人であるコリント教会の人々の多くは、それを「だから別に好きなように生きていいんじゃね?」と取ったようだ。ところが、パウロは「好きなように生きる」ことは決して「自由」ということではない、と考えた。自分の人生を振り返り、あるいは他人の生き方を見て、すぐに気付くことではないか。好き放題に生きている人間がどんなに何かに取りつかれ、縛られているかを。それを何となく知っているから、たいていの人はある程度自制して生きる。また本当にのびやかで自由な生き方をしている人々は、たいていしっかりした目標や理想をもって、そこに向けてある種の自分への厳しさを持っている。どうやら、身体というものは、正しい方向付けと関係性の中でこそ、本領を発揮でき、それが自由というものであるようだ。そこに至らないと、常に好きなように生きているようであって、よどんだ生き方になってしまう。

パウロはしかし、いわば理だけで話を終えていない。彼は行動する神がこの世界でもたらしたという奇跡を語る。それは「復活」である。キリストは復活させられた、私たちも彼に結ばれていれば復活する。

この箇所の警告はどうやら実際にこの手紙の送り先であるコリントの教会ではリアルだったようだ。実際にもう失敗をしてしまった人々がいるということだ。それはこの手紙のほかの箇所でも示されている。極端なケースとして父親の後妻(つまり義母)とデキてしまう、というところまで書かれている。だからこそ、この箇所は意味があるように思える。これらの言葉はただ宗教的なきれいさ、きらびやかさとして、現実離れに書かれているのではない。そういう無残な失敗に向かって、もう一度やり直せる、人間の身体は、間違ってしまった後でも、よみがえりをもたらす神に手を引かれるようにして、もう一度「神の栄光を表す」べく再挑戦の機会を与えられている。

2015年7月23日木曜日

黙想:人が惜しむこと、神が惜しむこと

今日は日本聖書協会の「愛読こよみ」から。

今日の聖句 2015年7月23日 生ける神

格別に印象に残ったのは、次の箇所だった。

 主はこう言われた。
 「お前は、自分で労することも育てることもなく、
  一夜にして生じ、一夜にして滅びた
  このとうごまの木さえ惜しんでいる。

  それならば、どうしてわたしが、
  この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。
  そこには、十二万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、
  無数の家畜がいるのだから。」

1.私が物惜しみをすることについて

私が今手にしている多くのものは、労せずに得てきたと思う。もちろん労して得た者も多くあるが、それもまた、多くの人たちの支えなしにはあり得なかった。それは、この聖書箇所の主人公ヨナのとうごま、つまり神が束の間彼に日陰を与えるべく育てた木と、根本的にさほど違わないはずでもある。

もちろん、社会的にはそれらはその人の所有である。奪われてはならない。それは近代自由主義、資本主義の社会の基本でもある。また、一人一人の生活を支える様々の所有物やアクセス権は、その人が生きていく権利を支える土台にもなる。おそらく聖書もそのことを否定しているのではないだろう。ここでも、ヨナがトウゴマを惜しんでいることを否定してはいない。ただ、それはしかし、そのようにして人を支える根源的な人格が存在し、その方が私たちに、それはそもそもでいればあなたのものではないでしょう? 受けたものでしょう? と問うている、ということになる。それは実存の根底を問う哲学的、あるいは宗教的な問いである。

2.神が物惜しみすることについて

そして、聖書はそのすべての根源、源であり、与え手であるところの神ご自身が、一つの10万規模の都市を惜しむと言っているのである。聖書は、ニネベはやがて滅びることを告げている。しかしそれは、邪悪な人々がいる街なのだから滅びて当然、というようなすっきりしたものではない。むしろ、問題だらけの都市(国家)について、その根源的所有者たる神は「右も左もわきまえぬ人間と無数の家畜(広げれば所有物、ということになるだろうか)」とも見る。優先されているのは問題の改善、解決である。

ヨナは自分たちの国の脅威であったニネベを憎んだ。そして自分たちの神であるはずの神が、自分のような、邪悪な街ニネベなど滅んでしまえ、と心の底から思っている愛国者を用いて、邪悪な道から立ち返りなさい、と告げさせ、あまつさえ、それで改悛の情を示したからと言って赦してしまう、ということが、どうにも解せなかった。しかし、神は、自分に免じて、そういう見方をしないようにしてくれ、と言っているようだ。

3.緊張関係にある隣国をどう思うかについての、一つの視点

国際関係には、古代以来現代まで、緊張がつきものであった。そしてそれに対処するに際し、クラシックな言い方でも、力の均衡を重んじる現実主義的な考え方、相互依存関係を促進して軍事よりも通商で関係改善しようとする考え方、世界の競争と貧富差に介入して平等を目指すことで争いを減らそうとする考え方など、いくつかのモデルが出され、取り組まれてきた。それ自体は専門的な議論として、きちんとなされるべきだろう。ただ、一つの国の人間として、緊張関係にある、脅威と考えられることもある隣国について、どう思うかについてのひとつの宗教的な捉え方のヒントはここにあるようにも思った。

私たちは、そういう国々が問答無用の邪悪な存在であるように思えるし、極端な人なら、滅んでしまえばいいのに、とすら思うかもしれない。そしてひるがえって自分たちはなかなかいい国だと思うかもしれない。

しかし、(1) 私たち(の国)が手にしている良いものの多くは、実は根本的には私たち自身が労したのではなく手にしているものが多い。

(2)相手の国もまた、神のものである。そして神から見るときには、その国の人々は経済運営や国の統治について方向性を見失って苦しんでいるのかもしれない。(もちろんひるがえって、自分たちの国もそうかもしれない)

(3)だから、少なくとも、私たちが多文化に対して、あるいは自分たちと異なる隣人たちに対して抱いている違和感や反発はそれとして、それと神の思いは異なる、ということを、神は私たちに理解してほしいのではないか。

曰く嫌韓、嫌中、嫌ロシア…或いは反日など。或いはギリシャみたいな国を突き放したくなる気持ちも。いったん嫌いになってしまったら、たとえ周りがそういうことの愚かさと幼稚さを指摘しても、なかなか変われないのかもしれない。しかし、キリスト者であるならば、少なくとも頭の片隅では、きっと神は私たちとは違うお考えをお持ちなのでは、という考えを大事にすべきだろう、と思う。

2015年7月20日月曜日

黙想:兵士というたとえ

今日はこちらを読んだ。
忠実な兵役(『デイリーブレッド』 2015年7月20日)

忍耐をもって生き抜こう、というメッセージに、基本的に異存はない。ただ、メッセージからすれば本筋からやや外れるかもしれないけれど、キリスト教における「兵士というたとえ」について思いが及んだ。

1.この記事にあるC・S・ルイスの兵役に関する厳しい言葉(ただ、率直な実感であろう)を読む時に、二つの方向に思いが行く。

(a) (1) 一つは、長年特にこの国にいて聞いてきたことで、だから戦争や軍隊は非人間的であり、こういうものは永遠に完全に放棄すべきなのだ、という声である。それは一方では、聖書が提示するビジョン、敵をも愛するという現在生きるビジョンと、やがて剣を鎌に変える、という将来の完全平和の天国的なビジョンを想起させる。そこから見ると、兵士の比喩は、あくまでごく限定的に用いられるべきものとなるだろう。実際、今回の聖書箇所では、

  2:3キリスト・イエスの良い兵卒として、わたしと苦しみを共にしてほしい。
  2:4兵役に服している者は、日常生活の事に煩わされてはいない。
  ただ、兵を募った司令官を喜ばせようと努める。

とあり、比喩の目的が「日常生活のことに煩わされてはいない」「司令官(つまりはここでは司令官が徴募するように一人一人の名を呼んで集めたキリストの比喩と読める)を喜ばせようと努める」の二つに限定されている。
 日本のキリスト者の多くは、例えば欧米のキリスト教がしばしば軍関係者と極めて近しく、しばしば軍隊的な比喩が説教などでも用いられることに、抵抗を感じることは少なくないだろう。ある意味でそれは理由のあることだと思う。「聖書と戦争」はそれ自体大きなテーマで簡単に論じきれないけれども、一つの問題は時にこのテーマが聖書にあるからという理由で乱用されてきた面があるのではないかということだ。もちろん、どこまでが応用でどこからが乱用か、というのは、「「正典」を「解釈」する」ことに主眼のあるキリスト教という宗教の持つ基本的な難問であるとも思う。

 (2) ただ、戦争なんていらないから武器も兵士もいらない、といった声が特段の哲学的な葛藤の中で少数派として、周囲の好機の目にさらされながらあらわれる多くの社会と異なって、日本ではそれは、社民系、リベラル系の場で育てば、まるで常識のように教わり、空気のように身近にあることでもあるだろう。それは戦後日本の護憲派の中で形成された多数派的政治の論理の中にあるように見える。つまり、それは敗戦の中で勝者アメリカが持ち込んだ(押し付けたというのは単純化が過ぎると思うが)枠組に乗った「勝ち組の論理」として始まり、憲法と論壇と学校教育をてこに政治的に「主流」として生き延びてきた論理であって、諸外国における絶対平和主義のような厳しい鍛錬の中でそれでもあえて、というのではないように見える。そこでのキーワードは「みんな」がそう思うはず、そう思わない人は「おかしい」という多数派的な論理である。そしてその場合、こういう比喩は排除すべきものになるだろう。
 確かに民主主義政治には多数派原理があり、政治過程において利害を同調性するか、数をどう合わせるかは重要なことでもある。しかし、前提にあるのはそれぞれがある程度自分の立場、利害、理念について自分(あるいは身近な同志の自分「たち」)で考えて語り、共感或いは反発し、連帯あるいは反目して動く一人一人の「市民」ではないか、というと、あまりに定型的な考えすぎるのかもしれないが、どうも私はそういうことにこだわってしまう。「「私たち」語り」が、そこに取り込まれることになっている人々への同調圧力を利用している、ということに、私は抵抗を感じてきた。それが私の博士論文執筆の原動力でもあったし、今もこのことにこだわり続けてしまう。もし護憲派の運動が、また教会の中で護憲派的な主張を信仰の名でもたらそうとしている人たちが、この点について自覚的でないのであれば、私は声を上げ続けなくては、と思ってしまう。

(b)もう一つは、テキストの中身とのかかわりである。今回の聖書箇所全体が、キリスト教徒に鍛錬の必要を訴えている。問題は、もしかすると日本の戦後の平和主義は、軍事的なものの放棄と共に、重大な目的のためには鍛錬が不可欠であることをも軽んじる文化を形成してきてしまった面があるのではないか、ということだ。
 こう書くと自分の中にもある種の反発の声が響く。曰く、それは右翼の論理だろう。修身や教練の類を美徳としてきた人たちに賛同するのか、と。彼らこそ、日本を無謀な戦いに追いやった張本人ではないか、と。
 或いはそうかもしれない。しかし、そういうふうにいうときに、どうも二元論的な感じになっていないか、と問いたくなってしまう。マッチョな軍国主義でも、ヘタレた平和主義でもない、己と隣人と社会との再生のために鍛錬を積み重ね、行動するような生き方が、本当は求められているのではないか、と考えてしまう。それは自身の問題でもあるし、子育て中の父親としての悩みでもある。

ただ、もう一度聖書の箇所に戻ってみれば、この鍛錬の問題は複数の比喩からなっていることが分かる。一つは競技、もう一つは労働である。私たちはその広がりの中で、鍛錬についてより深く、バランス感覚を持って黙想できるだろうとも思う。

 2:5また、競技をするにしても、規定に従って競技をしなければ、栄冠は得られない。
 2:6労苦をする農夫が、だれよりも先に、生産物の分配にあずかるべきである。

***

(おまけ) ここまで書いて、そもそも、とも思う。古代の軍隊と近代の軍隊ではそもそも徴募のあり方や組織管理のあり方が随分違う。古代でも団結して自分たちの町を守るような場合と、帝国の傭兵として傭兵隊長に雇われて治安維持や戦争に従事するの(がここの比喩のイメージだろう)とで随分違っただろう。近代国民国家の下での徴兵や志願兵と大きく異なるのは言うまでもない。なので、どの程度引きつけて読めるのかの問題があるだろう。

2015年7月19日日曜日

黙想:こんなふうに確信を持てる日は来るのだろうか…

今朝読んだ聖書の中で、特に日本聖書協会に掲載されたものについて。
2015年7月19日ダニエル書6:16-24

敬虔なダニエルはペルシャ王の覚えめでたい忠実な臣下であったが、周囲の妬みを買った。彼らはダニエルを陥れようと王をおだてて、王以外のものを礼拝しない、さもなくばライオンの穴に投げ込む、という勅令を出させた。それでもいつものように日に3回の祈りを欠かさなかったダニエルはライオンの穴に入れられたが、神によって守られた、という話。

恐らく、ライオンの穴に入れられたのに大丈夫だった、ということが奇跡として語られているようにも読めると思う。ただ、情景を思い浮かべるとき、私なら、もし今の瞬間ライオンが私を食い尽くさなかったとしても、ライオンを目の前にして、これからも大丈夫、と思えないのではないか、と思った。

結末の部分にこうある。

「ダニエルは引き出されたが、その身に何の害も受けていなかった。神を信頼していたからである。」

私は今、ひと月先の旅行の準備をしている。数日前にセブとマニラの旅館の問い合わせをしたが、セブの方は返事が来ず(数日待ってやり直す予定)、マニラの方は初日だけ宿がまだとれていない(その日は別のところに行く予定に変更)。まだひと月あるし、もしかして飛び込みで行ってもたぶん大丈夫だろうに、それでもなんだかとても気になるし、思い出すとそわそわしたりする。地域研究者にして、46歳にもなり、信仰暦も25年を超え、フィリピンにも何度行ったかしれない(セブの旅館の予約は初めてだが)のに、このビビりっぷりは、信仰がどうの以前のことかもしれない(笑)。

そんな自分を振り返って、地位をはく奪され、死の淵に追い込まれた彼が、「神を信頼していた」ということの凄みを感じる。以前この箇所の直前を読んだ時には、祈ったことが露見すれば死ぬ、と勅令が出た日に、いつものように(誰からでも見えるところで)祈った彼の凄さを思ったことがあったが、そこともつながるだろう。

一体このようないわば悟りの境地みたいな確信を持てる日が、こんな肝っ玉の小さい自分にも来るのだろうか、と思ってしまう。ダニエル書を読むと、彼は幼い日に祖国の滅亡によって外国に捕囚されたところから、度重なる試練を超え、その支配者バビロン自体の滅亡と新たな支配者ペルシャの統治、という激動を超えて生かされてきた。彼の人生は、自分も弱いかもしれないが、世の中の方も定めなきものであり、そういう世界の中に確かに人間を峻厳に、かついつくしみ深く支えてくれる偉大な存在を体感してきたという物語である。

だから、私も、ささやかで名もなき歩みではあるけれども、その中で神の方から現れてくださる、と期待して生きていけばいいのかな、と思ったりする。

2015年7月17日金曜日

「人文社会科学批判」と「解釈する学問」の相反する問題

今、テッサ・モーリス・スズキという人の『過去は死なない』という本を読み進めている。

写真に関することで、原爆についての有名な写真を撮った方が、以前に軍の意図に沿う「明るいアジア占領地の子どもたち」の写真を、戦後占領下では、占領政策の意図に沿う「民主的な天皇家」の写真を取ったことを取り上げて、ここに、原爆の普遍的な悪が、大戦の否定的な側面とも、天皇の戦争における役割とも切り離された形で取り扱われてきたこととのかかわりを見る、という部分を読んだばかりだ。

その鮮やかな筆致に、改めて、歴史や社会や文化について、批評的にみること、解釈論としての学問の魅力を思った。優れた解釈論は、意図して課せざるか、隠されて(隠れて)しまっているものを明らかにし、扱われないまま腐りかかっていた問題を表に出す。

それで思い出すのは、数日前に我が家であったことだ。1歳半の娘がバナナで遊んでいて、妻が気づいたときにはどこかに消えてしまっていた。彼女があったはずのバナナを全部食べたということは、これまでの彼女の食べる量からは考えにくい。そこでしなければならないことは明らかで、バナナの切れ端がどこかから出てくるまで探すことだ。そうしないとどうなるか。やがて腐る。あるいは虫がつく。あるいはもしかして、外から蟻が入ってきて、蟻の道が家にできてしまうかもしれない。

この件は次の日に妻が部屋を掃除している間にバナナが出てきて解決したけれども、実は歴史の中には(否、私たち一人一人の人生にも)、そうやって置きっぱなしになったまま腐って虫がつきかねないような過去の未解決の問題がごろごろしているのではないか、ということだ。

***

最近文部科学省が、国立大学の人文科学系の学部について非常に否定的な方針を出し、指示を出したことはよく知られていると思う。今回のことで、なぜそうなったかの一端に触れたように思った。それは、人文社会科学の多くは、現状知られ、報じられている事柄の、クリティカルな解釈論だからだ、ということだ。

ただ、それは恐らく三つの意味を持つだろうと思う。

(1)先ずは人文社会科学を広く大学生に学ばせることに否定的な人たちの考えに寄り添ってみることにすると、それらの解釈論は、しばしば実に「どうでもいいこと」をこねくり回すことに終わっている、ということだろう。粗雑に「役に立たない」と言われれば、それに対して反発したくなるのは分かるが、そういう意見が出てしまうことに全く正当な根拠がないとまで言えるか、自省したい。実際の学問の場における解釈論は、しばしば流行している新しい解釈方法を既存の研究対象に、なぜそういうことをすべきかを吟味しないまま、研究者自身が「研究成果」を増やす手っ取り早い方法として、導入される。また、ある種の研究者は、自分の議論に対する反論を回避するために、わざとわかりにくく書いて、いかにも深遠な問題に取り組んでいるかのようなそぶりを見せようとする(はいはい、私、昔そういうことをちょっとしてしまった過去があります…反省です)。こういうものにうんざりさせられた人たちが、大学の文系学部なんて、小難しい言葉をこねくり回して無駄なおしゃべりをたくさん生産している知性のゴミ工場であって、そんなことをしている人間が屁理屈をこねて教養が必要だの何だのと言いつのりながら、要は自分たちの牙城を、しかも国民の血税を部分的には使ってやり続けて、それで胸を張るなんて、チャンチャラおかしい。ただの既得権益の巣窟ではないか、というのも、一理いあるのかな、と自省するのです。

(2)テッサ・モーリス・スズキさんの議論と絡めていうならば、もうひとつ問題のあるあり方がある。それは、特定の政治主張が至上命題になっていて、それを支える議論ばかりを集めていく(したがって、都合の悪い事例は極力避ける)、というような類の解釈論も横行しているということで、それは彼女の言う「歴史への真摯さ」という姿勢と対立する恣意性である。特にこういう政策的方向を持ち込んだ政府から言わせれば、結局なにがなんでも反政権の思想と運動が、特に大学内に協力に残存していて、言を弄して学問の名で反政権の運動を展開し、学生たちに吹聴している、それは不公平かつ有害ではないか、ということになるだろう。私は半分だけこれに賛成したい。半分というのは、主張そのものとしては正しいと思うからだ。私にとって学問とは、たとえ中立性や公平性、客観性というものそのものに原理的な限界があるにしても、スズキの述べる「歴史への真摯さ」つまり歴史の真実への探求を、自分の立論に都合が悪いような事例も視野から外さずに進めようとする努力の中でこそ、進められるべきものと考えるからだ。そういう点から見たときに、残念ながら、大学の言論の中には「正義」の名のもとに安易な決めつけに走ることで「良心的知識人」たらんとする変な自負があちこちにみられすぎるように思える。それはあまりよいことに思えない。

ただ、新政権の運動も同様にキャンパス内には強力に存在している。また、では政策としてどうするのがいいのか、というと、その牙城をつぶせばいい、というのは無茶であろう。次に述べる、人文科学の解釈論の訓練(という教養教育)がもたらす社会貢献をも一緒に壊しかねないからだ。そもそも運動を強く志向するイデオロギーの強い研究者がいてもいいのではないか。それもまた、大学が多様な教員を受け入れることを確保し、その中にそういうタイプの人たちもいる、というふうにするよう留意していれば、学内における諸論の存在の中で、大学にいる人たちはそれぞれ批判的な吟味を積み重ねる機会が得られるはずだから。それこそ、民主主義、問題への参加姿勢の涵養、ある方法がうまく行かなかったときに代替案を考えるためのヒントが蓄積されていくことになる。そういうものを蓄えておく場所は、今のように先が見えない、変化の速い、問題が複合化している時代において、不可欠なソーシャルキャピタル(このことば、まだ使い慣れない…)なのではないか。

(3)そして、既にふれた問題を解剖し、隠されたまま腐敗に向かっている事柄を解剖によって明らかにするような役割が、解釈論にはある。たとえ人文社会科学における解釈論が、自然科学のそれのように実証の確認が明確でも、応用のプロセスも明確でもないとしても、それは現在の高度な相互作用の拡大の中にある社会の中で活路を開くヒントを探す際に、そして問題に行き詰った時に活路を探るのに、不可欠なものではないか。

***

この件について、研究ブログの方がいいのかどうか迷った。ただ、黙想ブログに書くことにしたのは、やはりキリスト教徒それにかかわる学問が、実は高度に解釈にかかわるものであった、ということを想起するからである。そして、キリスト教学や神学の解釈的な側面に関する問題も豊かさも、上記で触れたのと同様の側面があるように思ったのだ。

つまり、(1)残念ながら少なからざるキリスト教研究は、先端の議論をフォローすることで自分の実績を作り、実際には意義を吟味しないまま研究者の成功に貢献するものになっていることが少なくないのではないか、にもかかわらず、学問の名において安易な自己正当化を行っていないか、という問いにつながる。(2)現代は普通の人々が高度に政治に巻き込まれている時代であると思うが、その中で、特定の政治的立場の擁護のために、あまりにしばしばキリスト教の言葉が乱費されてきたのではないか、という問いにもつながる。但し(3)もし神学的な解釈論が、現実の社会的、個人的、霊的な問題の中に隠されてしまっている諸事情を明るみに出すことにつながれば、それは個人、教会、コミュニティ、社会、政府、世界の直面する難問に向き合って行くことに貢献する、ということになるだろう。だから、神学や神学校についても、これまでそんなものなくてもいいのでは、といった批判に何度もさらされてきたにもかかわらず、教会のために、そして公共世界のためにも恐らく、不可欠なものなのだろうと思う。

そして、この(3)に向かうことこそ、実はすべての真相を知っている存在と、その方のまなざしを信じる者たちの霊性としてとても重要なのではないか。だから、ここに書くことにしたのである。

2015年7月16日木曜日

相手を悪魔とせずに政治に関わる

これから変なことを書くかもしれないけれど、実験として。

キリスト教は悪魔の存在を信じてきた。それは、確かに人間が神に反逆し己の利のために他人を傷つけてやまない、悪魔的な性質を帯びてしまいやすとしても、人間が悪魔なのではなくて、悪魔は別にいる(つまり悪の原因は人格的な何らかのダイナミクスであり、それは人間と同一視はされない)ということだと思う。

だから私は、どんなに特定の立場に反対する場合でも、相手を悪魔のように言うのは間違っていると思う。相手もまた、どれほどの邪悪さがあっても人間であるし、こちらもどれほどの正しさを抱えもっていても、人間に過ぎず、相手を悪魔と断じられる者ではない。

特にキリスト者は聖書で神が語る場面になじんで、「可能な限りでの」「許されている範囲内での」神の代弁者、という範囲を超えて、あたかも神を演じるような振る舞いになりかねないから、注意が必要に思える。

確かにキリスト教においては相手が超人的な権威を主張し、崇拝を要求したり、特定の民族の撲滅を目指したりするときには、それを「信仰告白の事態」として徹底して抵抗する必要のある場面もあるだろう。しかし、そういう時以外は、あくまで市民としての政治が前にある。それは市民的な対話、対論を前提とする。そして仮に相手が対話・対論をあざ笑うからといっても、こちらまでそのまねをする必要はない。

政治の論議はどうしても熱くなりやすい。とくに権力を背後に持った相手であれば、恐ろしく凶悪に見える(そして場合によっては実際にある種の凶悪さを帯びている)こともある。しかし、もし本当に自由と民主主義を大事にしたいというのだったら、自分がたとえ相手にレッテルを張られたとしても、相手に過剰なまでに張返したり、とにかく目的のためには手段を選ばない方向に向かおうとしたりするのはよろしくない、と改めて思う。

ただ、悪魔(あるいは悪の源泉となる有機的な働き)がいると信じるなら、いないところを叩こうとするのではなく、いるところを定めて戦うべきなのだろう。そのためにも、人間を悪魔と間違えて戦うのは賢明ではない。

2015年7月15日水曜日

「デイリーブレッド」で黙想:いろいろもやもや…(Meditating with "Our Daily Bread" - Not fully understood...)

Today I meditated with this.
今日の黙想はこちら。
Transformed Hearts
変えられた心

The scripture is:
Ezekiel 36:22-31
聖書箇所はこちら。
エゼキエル書36:22-31

My thought hovers around the repentance and salvation and renewal.  What is this unfinished process?  The meditation text didn't give me a satisfactory answer, though its description of the basic structure of things seems OK.
私の考えは、悔い改め、救い、刷新の間をぐるぐるめぐっている。この終わることのないプロセスは一体何なのだろう? このテキストに書いてあることでその答えは見えてこない。ただ、事柄の基本的な構造の描写はちゃんとできてはいると思うのだけれど。

The problem?  You know, the Israelites here were already chosen people, and it means that they were to be renewed and sanctified and differentiated from other people.  And look, here we find Israelites judged just like other people and then given promise for renewal - again.  So what would this promise mean, if the previous one was fruitless because of the sin of Israelites?
何が問題か、というと、今回のテキストで、イスラエル人たちというのは、既に神に選ばれた人たちであって、それはつまるところ、既に刷新され、清められ、他の民とは異なるものとされることになっていたはずだ、ということだ。それがどうだろう、ここでは罪を犯して裁かれることにおいてほかの民と何ら異なるところなく、再度刷新の約束が与えられている。もしイスラエルが罪を犯したから先の約束が結実しなかった、というのなら、今回の約束は何だということになるのか?

Of course the main point is that all through this process, there is still the Sovereign God who wills the renewal of this land through the chosen people, and they are to begin again and again after failures, with the new beginning and a new heart as gift from God himself.  So it is not the great people that matters, but the great God working with terribly mediocre and so-so people that matters.
もちろんこの箇所の眼目は、これらのプロセス全体を通してもなお、主権的な神がおられて、この方はこの世界の刷新を、ご自身が選んだ人々を通してもたらそうと考えている、ということだ。そして他ならぬ神ご自身が新たなスタートと新たな心をお与えになることをで、彼らは何度も失敗しても、何度でもやり直す、ということだろう。だから、大事なのは偉大なる人々がなにかを成し遂げるということではなく、ゲンナリするほど平凡な連中と共に偉大な神が働いているということがミソなのだろう。

Then, the promise of renewal?  Is this temporary?  Will people go back simply to the past darkness after this, again and again, just as the history of the Church has shown?  Or will there be any alternative way that will lead to the flourishing of justice all over the world?
では、刷新の約束はどうだろう。これは束の間起こるだけで、そのあとにまた以前の闇へと戻っていくだけなのか。教会史が示してきたとおり、そういうことが何度もあるだけなのか。それとも、それに代わる道があって、世界中に公義が満ち溢れるところに向かっていけるのか。

***

By the way, as I listen to both Japanese and English version, what is curious is the differences of expressions or styles of casual devotion between these two.  If you listen both of them, even if the contents of the texts are virtually the same, the tone of the voice, music used are in a sense very contrasting.  In English version, the music is rock with electric guitar and begin with robotized male voice, while Japanese version is with much lighter music with piano and strings and the narrator is a lady.  Both sounds natural to me - meaning that may represent how I understand Japanese and Americans pray.  We cannot go without culture yet it would be good to be somewhat conscious of that and to avoid making specific type a must.  We would be more fruitful if we are open to different types of cultural expressions of devotional spirit.
ところで、日本語版と英語版の両方を聞いていて興味深いのは、カジュアルな黙想に関する表現方法の違いである。聞いてみると、テキストの中身はほとんど同じだが、声のトーンや音楽がある意味とても対照的だと思う。英語の方はエレキのロックで始まり、最初にロボット風の音声で始まる。日本語の方はピアノとストリングの軽やかな音楽で、ナレーターは女性である。どちらも自然に聞こえてしまうのは、私が日本人やアメリカ人がどう祈るのかについて持っている理解がそういう感じだからだろう。私たちは文化なしでは済まないが、そのことを自覚して、特定のやり方でなければいけないとすることを避けるようにすべきだろう。黙想的な霊性の文化的表現についてはさまざまのタイプのものに開かれている方が実り多いと思う。

2015年7月14日火曜日

黙想:「私の平安」から始まる首尾一貫性の罠

今日もこちらを黙想した。

デイリーブレッド:私たちのような人

春ごろに立て続けに宣教者の伝記を読んだ。今回の黙想に引かれているウィリアム・ケアリの伝記も読んだ。興味深いのは、19世紀初頭において、「神の主権」の強調故に、積極的な宣教活動を異端視する考え方が強かったことだった。そして、19世紀前半の宣教者はしばしばこのことについて考え、反論する必要があった。今回のこのテキストにも、ケアリのインド伝道に反対した人たちのよく知られたことば(神がインドを救いたいのならば、神は、君や私の助けがなくてもそうされる)が見られる。

今となってはとても奇妙な感じもする。特に今日の黙想テキストに出てくるマタイ9章38節(だから、収穫の主に願って、その収穫のために働き人を送り出すようにしてもらいなさい)のように、働き手を送り出す必要は聖書を読めば明確すぎるほどなのだから、なおさらである。4世紀以降のヨーロッパのキリスト教会の中で、ローマ世界という「世界」がキリスト教のもとに下った以上、宣教の時代はもう終わった、という考え方が強まったことの影を見ることもできるのかもしれない。しかし15世紀以降、カトリック教会は熱心に世界中に出て行って、やり方の是非はあれ宣教活動を展開したのだから、プロテスタントがこれに呼応する流れにならなかったのはなぜなのか、気になる。

一度は改革派系の二重予定論(救われる者、滅びる者はあらかじめ定まっている、という考え)に染まったこともある私は、これがそれなりに理由があることではないか、という感覚も持っている。それに、もしこのことが重要でないなら、なぜわざわざ今こういう一般向けの黙想サイトでこういう記事が取り上げられるだろうか。

***

私がよく思うことは、聖書の世界は逆説性に満ちているということだ。その根底には、神についての神々しい描写と、対して人間世界の複雑かつ苦悩と暴虐があちこちに現れる困難な有様であり、その二者が同居する世界という理解がある。理屈でいえば無理だが、しかしもしこれが何らかの形で可能でなければ、人間には救い、希望、回復(贖い)が見えなくなってしまう、というのが聖書の世界なのだと思う。完全中身が主権者である世界、かつ人間の罪があふれたまま葛藤する世界、という、両立不可能なはずのものが並行的に、しかも没交渉ではない、激しく切り結ぶようなものとして描かれている。だから、首尾一貫した形ではなく、あくまである種の逆説性をはらんだ形でしか、私たちの理性によっては受け止めきれない面があるのだろうと思う。

しかし、プロテスタントの歴史、特に組織神学は、首尾一貫性に固執してきたのではないか。二重予定論はそもそも、罪深い私を救う圧倒的な神の恵みの強い認識の強調がその眼目であり、いわばミクロの理論である。問題はそのミクロの視点についての予定論的記述を、演繹的にマクロレベル(つまりは世界の救済に関する事柄全般)に直線的に適用してしまったこと、そしてそこから生じる聖書のさまざまなテキストとの間の矛盾をねじ伏せてしまったことにあるのではないか。

この強力に演繹的な体系化は、良くも悪くも近代の精神、科学主義の精神に通じるものであるだろう。そしてそれは、現代の大衆消費社会における孤立し疎外され原子化された個人が、世界を理解し(たつもりになり)、平安を得るのにも都合がいい。かくして個人の平安につながる物事の理解を起点に演繹し、事実関係をその枠組みの中にねじ伏せたような思想が流行する。特定の祈りを祈れば祝福されるとか、特定の教派だけが救いをもたらすとか、一つの書物の方法論を絶対視するとか、果ては歴史上自分の国を絶対化し、悪いことはみんな誰かの陰謀とするようなものまで、自分の安寧や喜びを起点にしてのみ世界を見る方法は、合理化の度合いが高ければ高いほど狂気となる。

解毒剤となるのは、具体的な経験、具体的なテキストによる、演繹的合理化というあり方自体の悲喜劇の暴露であろう。自分たちと異なる議論に耳を傾けたり、まだ見たことのなかったものをいろいろ見たり体験したり、あるいは異なる文化、習慣の世界に行って住んでみたりすること。もちろんそこにも欠けの多い人間の現実がある。しかしこちらが100点でも、あちらが0点でもない。

成熟とは、天におわします神が絶対であるならば、私たちの物事の理解は、あくまで、聖書の言葉を用いれば「(古代の金属を磨いただけでぼんやりとしか見えないような)鏡に映ったぼんやりした姿を見る」くらいなものなのだろう、ということだろう。

だから、強い確信を持ったら、もしかして一度その核心を言葉にして、最後に「なんちゃって~」とつけてみるのが、いい鍛錬になるのかもしれない。

2015年7月13日月曜日

今朝の黙想:主は近い、と信じ切れないが…

今朝はこちらを読んだ。というか音声があるので、聞きながら読んだ。

「さようなら」は言わない

このテキストで思ったこと。

私にとって、信仰の「確信」というのが、いつも弱いところだと思う。神が守ってくださる、導いてくださる、正してくださる、とか、どういう人とどうであってどういう感じになっていても、この出会いは益とされる、とか、信じようと思うたびに、もしそうでなかったら、という思いがよぎることが多い。なので、結末は分かっている、と口では断言するのだろうが、ひょっとして、死んだ後なんちゃってがあるのでは(あるいは死んだ後など何もなく死んで終わってしまうのでは)、という思いは消えたことがない。

もし疑わないようになればずっと楽なのかもしれない。でも、こればかりは自分の心の問題だし、そもそも目に見えぬ神が、私たちが死んだ後に私たちをどうされるのか、など確かめようもない。聖書にある約束、聖書を大事にすると決めた教会が語り続けてきた約束を信じることにするくらいしかない。私が思春期に苦しんだのは、心身の弱さの中で、いずれ滅びていく自分がどのように希望を持ち、平安を回復するか、だったと思う。たしかに大学1年生の時に、イエスを主と信じるようになってから、人生がそもそも根っこから定まらないような、暗くよどんだある種の根本的な不安を感じることはなくなった。けれども、基本的に経験したことのないしんどいことを初めて経験する場合に期待よりは不安が大きい自分は、腹をくくり切れていない人間だと思う。こういうのを不信仰というのかもしれない。

しかし、今日の箇所、ピリピ4:1-9を読むと、将来を心配せずに神を信じ、人を愛する明るい生き方を進める光景は、一人の心の中の状態の問題としてよりも、共に生きる仲間たちの中でのこととして描かれている。そこには多くのそれぞれ生きながら、しかし実のところともに、共通の生を生き、共通の目標を持つ人たちが描かれている。

パウロは手紙の送り先にいる人たちとすでに親しい関係を築いており、彼らへの思いやりを繰り返し言い表す。そして、彼が勧める生き方は、こんな感じ。

・主にあって堅く立ちなさい。
・主にあって一つ思いになってほしい。
・このふたりの女を助けてあげなさい。彼らは、「いのちの書」に名を書きとめられているクレメンスや、その他の同労者たちと協力して、福音のためにわたしと共に戦ってくれた女たちである。
・あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい。あなたがたの寛容を、みんなの人に示しなさい。
・何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。
すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて純真なこと、すべて愛すべきこと、すべてほまれあること、また徳といわれるもの、称賛に値するものがあれば、それらのものを心にとめなさい。

そして最後に、
・あなたがたが、わたしから学んだこと、受けたこと、聞いたこと、見たことは、これを実行しなさい。そうすれば、平和の神が、あなたがたと共にいますであろう。

仲間たちがいて、向上を目指す。また師匠がいて、その模範から学ぶ。

そしてそれらの言葉の真ん中にこの言葉がある。
・主は近い。

神の名のもとに、イエスの名のもとに、真摯に生きようと生き生きと務め、お互いに助け合う営みの真ん中に、本当は目に見えないはずの主なるイエスが近く見える。25年以上の教会生活を振り返ると、それは決していつもキラキラしたものではなくて、しばしばイライラさせられるような、時には残念ながらうまくいい関係を築けずに、この箇所のユウオデヤとスントケのように争ってしまう。砂をかむような思いでいることも少なくない。ぎくしゃくしたこともたくさんある。うんざりするほど平凡な、誤りと偏見が交錯する普通の人間たち(自分も)の集まり、という側面を、教会は持ってきた。だから、宗教熱心な人たちの中には、こんなものやってらんない、自分だけ、自分たちだけ、そういう特別に霊的な人間だけで集まって頑張る、というふうになることもよくある。もちろんそういうふうにしていろいろなことが改革されることもあるけれども、やがてそうやって出てきた運動も、同じような問題に直面する。

しかし、もしこの人間の世界に救いが、また救いをもたらすものが来ているのだとしたら、たぶんそんなふうな場所のただなかに見いだせない限り、現実味がない。忍耐強く、そう信じることに決めてしまえるかどうかなのかな、と思う。

2015年7月9日木曜日

最近の黙想:サイトを活用して

ご無沙汰しております。あまりのご無沙汰ぶりに閉鎖しようかとも考えたのですが、もう少し気軽に、タイトル通り、黙想に絡めてちょこちょこ書くことにすればいいや、と思うに至りました。

しばらくは通読を軸にした聖書の黙想をしていましたが、特定の習慣を過剰に構造化したくない、といういかにもプロテスタント的?改革派的?な欲求が頭をもたげ、しばらく離脱しています。

とは言っても別段何かアイデアがあるわけでもないし、聖書を黙想することが私の心の習慣であり続けることは変わらないので、他力本願で、この三つに触れるようになりました。

1.フィリピンではすでにおなじみのDaily Breadのサイトが日本語でもオープンしており、音声まではいるようになりました。家事でばたばたしやすい私たち夫婦には合っています。

デイリーブレッド

しかも英語版もあるので、英語で聞きなおせば英語に慣れることにもなります。
Our Daily Bread

2.日本聖書協会のホームページは週ごとのテーマに沿って聖書箇所を載せています。それも朝、あるいは時間が取れた時に静まって目を通すようにしています。
日本聖書協会


3.茨木聖書教会のぼちぼちなデボーション「オメル」も、こんないい加減な私にピッタリ。数日忘れても、すぐに追いつけます! ってどんだけテキトーなんでしょう(感涙)
オメル


4.日曜日にはLectio Divinaを読んでいます。Revised Common Lectionaryという世界中で多くの教会が使っている聖書箇所からの黙想テキストです。先週の日曜日は学会で教会に行けませんでしたが、そんな時朝ホテルで黙想するのに役立ちました。
レクティオ・ディヴィナ