2015年7月16日木曜日

相手を悪魔とせずに政治に関わる

これから変なことを書くかもしれないけれど、実験として。

キリスト教は悪魔の存在を信じてきた。それは、確かに人間が神に反逆し己の利のために他人を傷つけてやまない、悪魔的な性質を帯びてしまいやすとしても、人間が悪魔なのではなくて、悪魔は別にいる(つまり悪の原因は人格的な何らかのダイナミクスであり、それは人間と同一視はされない)ということだと思う。

だから私は、どんなに特定の立場に反対する場合でも、相手を悪魔のように言うのは間違っていると思う。相手もまた、どれほどの邪悪さがあっても人間であるし、こちらもどれほどの正しさを抱えもっていても、人間に過ぎず、相手を悪魔と断じられる者ではない。

特にキリスト者は聖書で神が語る場面になじんで、「可能な限りでの」「許されている範囲内での」神の代弁者、という範囲を超えて、あたかも神を演じるような振る舞いになりかねないから、注意が必要に思える。

確かにキリスト教においては相手が超人的な権威を主張し、崇拝を要求したり、特定の民族の撲滅を目指したりするときには、それを「信仰告白の事態」として徹底して抵抗する必要のある場面もあるだろう。しかし、そういう時以外は、あくまで市民としての政治が前にある。それは市民的な対話、対論を前提とする。そして仮に相手が対話・対論をあざ笑うからといっても、こちらまでそのまねをする必要はない。

政治の論議はどうしても熱くなりやすい。とくに権力を背後に持った相手であれば、恐ろしく凶悪に見える(そして場合によっては実際にある種の凶悪さを帯びている)こともある。しかし、もし本当に自由と民主主義を大事にしたいというのだったら、自分がたとえ相手にレッテルを張られたとしても、相手に過剰なまでに張返したり、とにかく目的のためには手段を選ばない方向に向かおうとしたりするのはよろしくない、と改めて思う。

ただ、悪魔(あるいは悪の源泉となる有機的な働き)がいると信じるなら、いないところを叩こうとするのではなく、いるところを定めて戦うべきなのだろう。そのためにも、人間を悪魔と間違えて戦うのは賢明ではない。

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