2015年7月17日金曜日

「人文社会科学批判」と「解釈する学問」の相反する問題

今、テッサ・モーリス・スズキという人の『過去は死なない』という本を読み進めている。

写真に関することで、原爆についての有名な写真を撮った方が、以前に軍の意図に沿う「明るいアジア占領地の子どもたち」の写真を、戦後占領下では、占領政策の意図に沿う「民主的な天皇家」の写真を取ったことを取り上げて、ここに、原爆の普遍的な悪が、大戦の否定的な側面とも、天皇の戦争における役割とも切り離された形で取り扱われてきたこととのかかわりを見る、という部分を読んだばかりだ。

その鮮やかな筆致に、改めて、歴史や社会や文化について、批評的にみること、解釈論としての学問の魅力を思った。優れた解釈論は、意図して課せざるか、隠されて(隠れて)しまっているものを明らかにし、扱われないまま腐りかかっていた問題を表に出す。

それで思い出すのは、数日前に我が家であったことだ。1歳半の娘がバナナで遊んでいて、妻が気づいたときにはどこかに消えてしまっていた。彼女があったはずのバナナを全部食べたということは、これまでの彼女の食べる量からは考えにくい。そこでしなければならないことは明らかで、バナナの切れ端がどこかから出てくるまで探すことだ。そうしないとどうなるか。やがて腐る。あるいは虫がつく。あるいはもしかして、外から蟻が入ってきて、蟻の道が家にできてしまうかもしれない。

この件は次の日に妻が部屋を掃除している間にバナナが出てきて解決したけれども、実は歴史の中には(否、私たち一人一人の人生にも)、そうやって置きっぱなしになったまま腐って虫がつきかねないような過去の未解決の問題がごろごろしているのではないか、ということだ。

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最近文部科学省が、国立大学の人文科学系の学部について非常に否定的な方針を出し、指示を出したことはよく知られていると思う。今回のことで、なぜそうなったかの一端に触れたように思った。それは、人文社会科学の多くは、現状知られ、報じられている事柄の、クリティカルな解釈論だからだ、ということだ。

ただ、それは恐らく三つの意味を持つだろうと思う。

(1)先ずは人文社会科学を広く大学生に学ばせることに否定的な人たちの考えに寄り添ってみることにすると、それらの解釈論は、しばしば実に「どうでもいいこと」をこねくり回すことに終わっている、ということだろう。粗雑に「役に立たない」と言われれば、それに対して反発したくなるのは分かるが、そういう意見が出てしまうことに全く正当な根拠がないとまで言えるか、自省したい。実際の学問の場における解釈論は、しばしば流行している新しい解釈方法を既存の研究対象に、なぜそういうことをすべきかを吟味しないまま、研究者自身が「研究成果」を増やす手っ取り早い方法として、導入される。また、ある種の研究者は、自分の議論に対する反論を回避するために、わざとわかりにくく書いて、いかにも深遠な問題に取り組んでいるかのようなそぶりを見せようとする(はいはい、私、昔そういうことをちょっとしてしまった過去があります…反省です)。こういうものにうんざりさせられた人たちが、大学の文系学部なんて、小難しい言葉をこねくり回して無駄なおしゃべりをたくさん生産している知性のゴミ工場であって、そんなことをしている人間が屁理屈をこねて教養が必要だの何だのと言いつのりながら、要は自分たちの牙城を、しかも国民の血税を部分的には使ってやり続けて、それで胸を張るなんて、チャンチャラおかしい。ただの既得権益の巣窟ではないか、というのも、一理いあるのかな、と自省するのです。

(2)テッサ・モーリス・スズキさんの議論と絡めていうならば、もうひとつ問題のあるあり方がある。それは、特定の政治主張が至上命題になっていて、それを支える議論ばかりを集めていく(したがって、都合の悪い事例は極力避ける)、というような類の解釈論も横行しているということで、それは彼女の言う「歴史への真摯さ」という姿勢と対立する恣意性である。特にこういう政策的方向を持ち込んだ政府から言わせれば、結局なにがなんでも反政権の思想と運動が、特に大学内に協力に残存していて、言を弄して学問の名で反政権の運動を展開し、学生たちに吹聴している、それは不公平かつ有害ではないか、ということになるだろう。私は半分だけこれに賛成したい。半分というのは、主張そのものとしては正しいと思うからだ。私にとって学問とは、たとえ中立性や公平性、客観性というものそのものに原理的な限界があるにしても、スズキの述べる「歴史への真摯さ」つまり歴史の真実への探求を、自分の立論に都合が悪いような事例も視野から外さずに進めようとする努力の中でこそ、進められるべきものと考えるからだ。そういう点から見たときに、残念ながら、大学の言論の中には「正義」の名のもとに安易な決めつけに走ることで「良心的知識人」たらんとする変な自負があちこちにみられすぎるように思える。それはあまりよいことに思えない。

ただ、新政権の運動も同様にキャンパス内には強力に存在している。また、では政策としてどうするのがいいのか、というと、その牙城をつぶせばいい、というのは無茶であろう。次に述べる、人文科学の解釈論の訓練(という教養教育)がもたらす社会貢献をも一緒に壊しかねないからだ。そもそも運動を強く志向するイデオロギーの強い研究者がいてもいいのではないか。それもまた、大学が多様な教員を受け入れることを確保し、その中にそういうタイプの人たちもいる、というふうにするよう留意していれば、学内における諸論の存在の中で、大学にいる人たちはそれぞれ批判的な吟味を積み重ねる機会が得られるはずだから。それこそ、民主主義、問題への参加姿勢の涵養、ある方法がうまく行かなかったときに代替案を考えるためのヒントが蓄積されていくことになる。そういうものを蓄えておく場所は、今のように先が見えない、変化の速い、問題が複合化している時代において、不可欠なソーシャルキャピタル(このことば、まだ使い慣れない…)なのではないか。

(3)そして、既にふれた問題を解剖し、隠されたまま腐敗に向かっている事柄を解剖によって明らかにするような役割が、解釈論にはある。たとえ人文社会科学における解釈論が、自然科学のそれのように実証の確認が明確でも、応用のプロセスも明確でもないとしても、それは現在の高度な相互作用の拡大の中にある社会の中で活路を開くヒントを探す際に、そして問題に行き詰った時に活路を探るのに、不可欠なものではないか。

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この件について、研究ブログの方がいいのかどうか迷った。ただ、黙想ブログに書くことにしたのは、やはりキリスト教徒それにかかわる学問が、実は高度に解釈にかかわるものであった、ということを想起するからである。そして、キリスト教学や神学の解釈的な側面に関する問題も豊かさも、上記で触れたのと同様の側面があるように思ったのだ。

つまり、(1)残念ながら少なからざるキリスト教研究は、先端の議論をフォローすることで自分の実績を作り、実際には意義を吟味しないまま研究者の成功に貢献するものになっていることが少なくないのではないか、にもかかわらず、学問の名において安易な自己正当化を行っていないか、という問いにつながる。(2)現代は普通の人々が高度に政治に巻き込まれている時代であると思うが、その中で、特定の政治的立場の擁護のために、あまりにしばしばキリスト教の言葉が乱費されてきたのではないか、という問いにもつながる。但し(3)もし神学的な解釈論が、現実の社会的、個人的、霊的な問題の中に隠されてしまっている諸事情を明るみに出すことにつながれば、それは個人、教会、コミュニティ、社会、政府、世界の直面する難問に向き合って行くことに貢献する、ということになるだろう。だから、神学や神学校についても、これまでそんなものなくてもいいのでは、といった批判に何度もさらされてきたにもかかわらず、教会のために、そして公共世界のためにも恐らく、不可欠なものなのだろうと思う。

そして、この(3)に向かうことこそ、実はすべての真相を知っている存在と、その方のまなざしを信じる者たちの霊性としてとても重要なのではないか。だから、ここに書くことにしたのである。

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