2015年7月14日火曜日

黙想:「私の平安」から始まる首尾一貫性の罠

今日もこちらを黙想した。

デイリーブレッド:私たちのような人

春ごろに立て続けに宣教者の伝記を読んだ。今回の黙想に引かれているウィリアム・ケアリの伝記も読んだ。興味深いのは、19世紀初頭において、「神の主権」の強調故に、積極的な宣教活動を異端視する考え方が強かったことだった。そして、19世紀前半の宣教者はしばしばこのことについて考え、反論する必要があった。今回のこのテキストにも、ケアリのインド伝道に反対した人たちのよく知られたことば(神がインドを救いたいのならば、神は、君や私の助けがなくてもそうされる)が見られる。

今となってはとても奇妙な感じもする。特に今日の黙想テキストに出てくるマタイ9章38節(だから、収穫の主に願って、その収穫のために働き人を送り出すようにしてもらいなさい)のように、働き手を送り出す必要は聖書を読めば明確すぎるほどなのだから、なおさらである。4世紀以降のヨーロッパのキリスト教会の中で、ローマ世界という「世界」がキリスト教のもとに下った以上、宣教の時代はもう終わった、という考え方が強まったことの影を見ることもできるのかもしれない。しかし15世紀以降、カトリック教会は熱心に世界中に出て行って、やり方の是非はあれ宣教活動を展開したのだから、プロテスタントがこれに呼応する流れにならなかったのはなぜなのか、気になる。

一度は改革派系の二重予定論(救われる者、滅びる者はあらかじめ定まっている、という考え)に染まったこともある私は、これがそれなりに理由があることではないか、という感覚も持っている。それに、もしこのことが重要でないなら、なぜわざわざ今こういう一般向けの黙想サイトでこういう記事が取り上げられるだろうか。

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私がよく思うことは、聖書の世界は逆説性に満ちているということだ。その根底には、神についての神々しい描写と、対して人間世界の複雑かつ苦悩と暴虐があちこちに現れる困難な有様であり、その二者が同居する世界という理解がある。理屈でいえば無理だが、しかしもしこれが何らかの形で可能でなければ、人間には救い、希望、回復(贖い)が見えなくなってしまう、というのが聖書の世界なのだと思う。完全中身が主権者である世界、かつ人間の罪があふれたまま葛藤する世界、という、両立不可能なはずのものが並行的に、しかも没交渉ではない、激しく切り結ぶようなものとして描かれている。だから、首尾一貫した形ではなく、あくまである種の逆説性をはらんだ形でしか、私たちの理性によっては受け止めきれない面があるのだろうと思う。

しかし、プロテスタントの歴史、特に組織神学は、首尾一貫性に固執してきたのではないか。二重予定論はそもそも、罪深い私を救う圧倒的な神の恵みの強い認識の強調がその眼目であり、いわばミクロの理論である。問題はそのミクロの視点についての予定論的記述を、演繹的にマクロレベル(つまりは世界の救済に関する事柄全般)に直線的に適用してしまったこと、そしてそこから生じる聖書のさまざまなテキストとの間の矛盾をねじ伏せてしまったことにあるのではないか。

この強力に演繹的な体系化は、良くも悪くも近代の精神、科学主義の精神に通じるものであるだろう。そしてそれは、現代の大衆消費社会における孤立し疎外され原子化された個人が、世界を理解し(たつもりになり)、平安を得るのにも都合がいい。かくして個人の平安につながる物事の理解を起点に演繹し、事実関係をその枠組みの中にねじ伏せたような思想が流行する。特定の祈りを祈れば祝福されるとか、特定の教派だけが救いをもたらすとか、一つの書物の方法論を絶対視するとか、果ては歴史上自分の国を絶対化し、悪いことはみんな誰かの陰謀とするようなものまで、自分の安寧や喜びを起点にしてのみ世界を見る方法は、合理化の度合いが高ければ高いほど狂気となる。

解毒剤となるのは、具体的な経験、具体的なテキストによる、演繹的合理化というあり方自体の悲喜劇の暴露であろう。自分たちと異なる議論に耳を傾けたり、まだ見たことのなかったものをいろいろ見たり体験したり、あるいは異なる文化、習慣の世界に行って住んでみたりすること。もちろんそこにも欠けの多い人間の現実がある。しかしこちらが100点でも、あちらが0点でもない。

成熟とは、天におわします神が絶対であるならば、私たちの物事の理解は、あくまで、聖書の言葉を用いれば「(古代の金属を磨いただけでぼんやりとしか見えないような)鏡に映ったぼんやりした姿を見る」くらいなものなのだろう、ということだろう。

だから、強い確信を持ったら、もしかして一度その核心を言葉にして、最後に「なんちゃって~」とつけてみるのが、いい鍛錬になるのかもしれない。

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