2015年7月15日水曜日

「デイリーブレッド」で黙想:いろいろもやもや…(Meditating with "Our Daily Bread" - Not fully understood...)

Today I meditated with this.
今日の黙想はこちら。
Transformed Hearts
変えられた心

The scripture is:
Ezekiel 36:22-31
聖書箇所はこちら。
エゼキエル書36:22-31

My thought hovers around the repentance and salvation and renewal.  What is this unfinished process?  The meditation text didn't give me a satisfactory answer, though its description of the basic structure of things seems OK.
私の考えは、悔い改め、救い、刷新の間をぐるぐるめぐっている。この終わることのないプロセスは一体何なのだろう? このテキストに書いてあることでその答えは見えてこない。ただ、事柄の基本的な構造の描写はちゃんとできてはいると思うのだけれど。

The problem?  You know, the Israelites here were already chosen people, and it means that they were to be renewed and sanctified and differentiated from other people.  And look, here we find Israelites judged just like other people and then given promise for renewal - again.  So what would this promise mean, if the previous one was fruitless because of the sin of Israelites?
何が問題か、というと、今回のテキストで、イスラエル人たちというのは、既に神に選ばれた人たちであって、それはつまるところ、既に刷新され、清められ、他の民とは異なるものとされることになっていたはずだ、ということだ。それがどうだろう、ここでは罪を犯して裁かれることにおいてほかの民と何ら異なるところなく、再度刷新の約束が与えられている。もしイスラエルが罪を犯したから先の約束が結実しなかった、というのなら、今回の約束は何だということになるのか?

Of course the main point is that all through this process, there is still the Sovereign God who wills the renewal of this land through the chosen people, and they are to begin again and again after failures, with the new beginning and a new heart as gift from God himself.  So it is not the great people that matters, but the great God working with terribly mediocre and so-so people that matters.
もちろんこの箇所の眼目は、これらのプロセス全体を通してもなお、主権的な神がおられて、この方はこの世界の刷新を、ご自身が選んだ人々を通してもたらそうと考えている、ということだ。そして他ならぬ神ご自身が新たなスタートと新たな心をお与えになることをで、彼らは何度も失敗しても、何度でもやり直す、ということだろう。だから、大事なのは偉大なる人々がなにかを成し遂げるということではなく、ゲンナリするほど平凡な連中と共に偉大な神が働いているということがミソなのだろう。

Then, the promise of renewal?  Is this temporary?  Will people go back simply to the past darkness after this, again and again, just as the history of the Church has shown?  Or will there be any alternative way that will lead to the flourishing of justice all over the world?
では、刷新の約束はどうだろう。これは束の間起こるだけで、そのあとにまた以前の闇へと戻っていくだけなのか。教会史が示してきたとおり、そういうことが何度もあるだけなのか。それとも、それに代わる道があって、世界中に公義が満ち溢れるところに向かっていけるのか。

***

By the way, as I listen to both Japanese and English version, what is curious is the differences of expressions or styles of casual devotion between these two.  If you listen both of them, even if the contents of the texts are virtually the same, the tone of the voice, music used are in a sense very contrasting.  In English version, the music is rock with electric guitar and begin with robotized male voice, while Japanese version is with much lighter music with piano and strings and the narrator is a lady.  Both sounds natural to me - meaning that may represent how I understand Japanese and Americans pray.  We cannot go without culture yet it would be good to be somewhat conscious of that and to avoid making specific type a must.  We would be more fruitful if we are open to different types of cultural expressions of devotional spirit.
ところで、日本語版と英語版の両方を聞いていて興味深いのは、カジュアルな黙想に関する表現方法の違いである。聞いてみると、テキストの中身はほとんど同じだが、声のトーンや音楽がある意味とても対照的だと思う。英語の方はエレキのロックで始まり、最初にロボット風の音声で始まる。日本語の方はピアノとストリングの軽やかな音楽で、ナレーターは女性である。どちらも自然に聞こえてしまうのは、私が日本人やアメリカ人がどう祈るのかについて持っている理解がそういう感じだからだろう。私たちは文化なしでは済まないが、そのことを自覚して、特定のやり方でなければいけないとすることを避けるようにすべきだろう。黙想的な霊性の文化的表現についてはさまざまのタイプのものに開かれている方が実り多いと思う。

2015年7月14日火曜日

黙想:「私の平安」から始まる首尾一貫性の罠

今日もこちらを黙想した。

デイリーブレッド:私たちのような人

春ごろに立て続けに宣教者の伝記を読んだ。今回の黙想に引かれているウィリアム・ケアリの伝記も読んだ。興味深いのは、19世紀初頭において、「神の主権」の強調故に、積極的な宣教活動を異端視する考え方が強かったことだった。そして、19世紀前半の宣教者はしばしばこのことについて考え、反論する必要があった。今回のこのテキストにも、ケアリのインド伝道に反対した人たちのよく知られたことば(神がインドを救いたいのならば、神は、君や私の助けがなくてもそうされる)が見られる。

今となってはとても奇妙な感じもする。特に今日の黙想テキストに出てくるマタイ9章38節(だから、収穫の主に願って、その収穫のために働き人を送り出すようにしてもらいなさい)のように、働き手を送り出す必要は聖書を読めば明確すぎるほどなのだから、なおさらである。4世紀以降のヨーロッパのキリスト教会の中で、ローマ世界という「世界」がキリスト教のもとに下った以上、宣教の時代はもう終わった、という考え方が強まったことの影を見ることもできるのかもしれない。しかし15世紀以降、カトリック教会は熱心に世界中に出て行って、やり方の是非はあれ宣教活動を展開したのだから、プロテスタントがこれに呼応する流れにならなかったのはなぜなのか、気になる。

一度は改革派系の二重予定論(救われる者、滅びる者はあらかじめ定まっている、という考え)に染まったこともある私は、これがそれなりに理由があることではないか、という感覚も持っている。それに、もしこのことが重要でないなら、なぜわざわざ今こういう一般向けの黙想サイトでこういう記事が取り上げられるだろうか。

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私がよく思うことは、聖書の世界は逆説性に満ちているということだ。その根底には、神についての神々しい描写と、対して人間世界の複雑かつ苦悩と暴虐があちこちに現れる困難な有様であり、その二者が同居する世界という理解がある。理屈でいえば無理だが、しかしもしこれが何らかの形で可能でなければ、人間には救い、希望、回復(贖い)が見えなくなってしまう、というのが聖書の世界なのだと思う。完全中身が主権者である世界、かつ人間の罪があふれたまま葛藤する世界、という、両立不可能なはずのものが並行的に、しかも没交渉ではない、激しく切り結ぶようなものとして描かれている。だから、首尾一貫した形ではなく、あくまである種の逆説性をはらんだ形でしか、私たちの理性によっては受け止めきれない面があるのだろうと思う。

しかし、プロテスタントの歴史、特に組織神学は、首尾一貫性に固執してきたのではないか。二重予定論はそもそも、罪深い私を救う圧倒的な神の恵みの強い認識の強調がその眼目であり、いわばミクロの理論である。問題はそのミクロの視点についての予定論的記述を、演繹的にマクロレベル(つまりは世界の救済に関する事柄全般)に直線的に適用してしまったこと、そしてそこから生じる聖書のさまざまなテキストとの間の矛盾をねじ伏せてしまったことにあるのではないか。

この強力に演繹的な体系化は、良くも悪くも近代の精神、科学主義の精神に通じるものであるだろう。そしてそれは、現代の大衆消費社会における孤立し疎外され原子化された個人が、世界を理解し(たつもりになり)、平安を得るのにも都合がいい。かくして個人の平安につながる物事の理解を起点に演繹し、事実関係をその枠組みの中にねじ伏せたような思想が流行する。特定の祈りを祈れば祝福されるとか、特定の教派だけが救いをもたらすとか、一つの書物の方法論を絶対視するとか、果ては歴史上自分の国を絶対化し、悪いことはみんな誰かの陰謀とするようなものまで、自分の安寧や喜びを起点にしてのみ世界を見る方法は、合理化の度合いが高ければ高いほど狂気となる。

解毒剤となるのは、具体的な経験、具体的なテキストによる、演繹的合理化というあり方自体の悲喜劇の暴露であろう。自分たちと異なる議論に耳を傾けたり、まだ見たことのなかったものをいろいろ見たり体験したり、あるいは異なる文化、習慣の世界に行って住んでみたりすること。もちろんそこにも欠けの多い人間の現実がある。しかしこちらが100点でも、あちらが0点でもない。

成熟とは、天におわします神が絶対であるならば、私たちの物事の理解は、あくまで、聖書の言葉を用いれば「(古代の金属を磨いただけでぼんやりとしか見えないような)鏡に映ったぼんやりした姿を見る」くらいなものなのだろう、ということだろう。

だから、強い確信を持ったら、もしかして一度その核心を言葉にして、最後に「なんちゃって~」とつけてみるのが、いい鍛錬になるのかもしれない。

2015年7月13日月曜日

今朝の黙想:主は近い、と信じ切れないが…

今朝はこちらを読んだ。というか音声があるので、聞きながら読んだ。

「さようなら」は言わない

このテキストで思ったこと。

私にとって、信仰の「確信」というのが、いつも弱いところだと思う。神が守ってくださる、導いてくださる、正してくださる、とか、どういう人とどうであってどういう感じになっていても、この出会いは益とされる、とか、信じようと思うたびに、もしそうでなかったら、という思いがよぎることが多い。なので、結末は分かっている、と口では断言するのだろうが、ひょっとして、死んだ後なんちゃってがあるのでは(あるいは死んだ後など何もなく死んで終わってしまうのでは)、という思いは消えたことがない。

もし疑わないようになればずっと楽なのかもしれない。でも、こればかりは自分の心の問題だし、そもそも目に見えぬ神が、私たちが死んだ後に私たちをどうされるのか、など確かめようもない。聖書にある約束、聖書を大事にすると決めた教会が語り続けてきた約束を信じることにするくらいしかない。私が思春期に苦しんだのは、心身の弱さの中で、いずれ滅びていく自分がどのように希望を持ち、平安を回復するか、だったと思う。たしかに大学1年生の時に、イエスを主と信じるようになってから、人生がそもそも根っこから定まらないような、暗くよどんだある種の根本的な不安を感じることはなくなった。けれども、基本的に経験したことのないしんどいことを初めて経験する場合に期待よりは不安が大きい自分は、腹をくくり切れていない人間だと思う。こういうのを不信仰というのかもしれない。

しかし、今日の箇所、ピリピ4:1-9を読むと、将来を心配せずに神を信じ、人を愛する明るい生き方を進める光景は、一人の心の中の状態の問題としてよりも、共に生きる仲間たちの中でのこととして描かれている。そこには多くのそれぞれ生きながら、しかし実のところともに、共通の生を生き、共通の目標を持つ人たちが描かれている。

パウロは手紙の送り先にいる人たちとすでに親しい関係を築いており、彼らへの思いやりを繰り返し言い表す。そして、彼が勧める生き方は、こんな感じ。

・主にあって堅く立ちなさい。
・主にあって一つ思いになってほしい。
・このふたりの女を助けてあげなさい。彼らは、「いのちの書」に名を書きとめられているクレメンスや、その他の同労者たちと協力して、福音のためにわたしと共に戦ってくれた女たちである。
・あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい。あなたがたの寛容を、みんなの人に示しなさい。
・何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。
すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて純真なこと、すべて愛すべきこと、すべてほまれあること、また徳といわれるもの、称賛に値するものがあれば、それらのものを心にとめなさい。

そして最後に、
・あなたがたが、わたしから学んだこと、受けたこと、聞いたこと、見たことは、これを実行しなさい。そうすれば、平和の神が、あなたがたと共にいますであろう。

仲間たちがいて、向上を目指す。また師匠がいて、その模範から学ぶ。

そしてそれらの言葉の真ん中にこの言葉がある。
・主は近い。

神の名のもとに、イエスの名のもとに、真摯に生きようと生き生きと務め、お互いに助け合う営みの真ん中に、本当は目に見えないはずの主なるイエスが近く見える。25年以上の教会生活を振り返ると、それは決していつもキラキラしたものではなくて、しばしばイライラさせられるような、時には残念ながらうまくいい関係を築けずに、この箇所のユウオデヤとスントケのように争ってしまう。砂をかむような思いでいることも少なくない。ぎくしゃくしたこともたくさんある。うんざりするほど平凡な、誤りと偏見が交錯する普通の人間たち(自分も)の集まり、という側面を、教会は持ってきた。だから、宗教熱心な人たちの中には、こんなものやってらんない、自分だけ、自分たちだけ、そういう特別に霊的な人間だけで集まって頑張る、というふうになることもよくある。もちろんそういうふうにしていろいろなことが改革されることもあるけれども、やがてそうやって出てきた運動も、同じような問題に直面する。

しかし、もしこの人間の世界に救いが、また救いをもたらすものが来ているのだとしたら、たぶんそんなふうな場所のただなかに見いだせない限り、現実味がない。忍耐強く、そう信じることに決めてしまえるかどうかなのかな、と思う。

2015年7月9日木曜日

最近の黙想:サイトを活用して

ご無沙汰しております。あまりのご無沙汰ぶりに閉鎖しようかとも考えたのですが、もう少し気軽に、タイトル通り、黙想に絡めてちょこちょこ書くことにすればいいや、と思うに至りました。

しばらくは通読を軸にした聖書の黙想をしていましたが、特定の習慣を過剰に構造化したくない、といういかにもプロテスタント的?改革派的?な欲求が頭をもたげ、しばらく離脱しています。

とは言っても別段何かアイデアがあるわけでもないし、聖書を黙想することが私の心の習慣であり続けることは変わらないので、他力本願で、この三つに触れるようになりました。

1.フィリピンではすでにおなじみのDaily Breadのサイトが日本語でもオープンしており、音声まではいるようになりました。家事でばたばたしやすい私たち夫婦には合っています。

デイリーブレッド

しかも英語版もあるので、英語で聞きなおせば英語に慣れることにもなります。
Our Daily Bread

2.日本聖書協会のホームページは週ごとのテーマに沿って聖書箇所を載せています。それも朝、あるいは時間が取れた時に静まって目を通すようにしています。
日本聖書協会


3.茨木聖書教会のぼちぼちなデボーション「オメル」も、こんないい加減な私にピッタリ。数日忘れても、すぐに追いつけます! ってどんだけテキトーなんでしょう(感涙)
オメル


4.日曜日にはLectio Divinaを読んでいます。Revised Common Lectionaryという世界中で多くの教会が使っている聖書箇所からの黙想テキストです。先週の日曜日は学会で教会に行けませんでしたが、そんな時朝ホテルで黙想するのに役立ちました。
レクティオ・ディヴィナ

2014年8月1日金曜日

いち研究者としての振り返り

久々のこちらのブログ更新。大阪大学外国語学部での3年目の1学期の終わりに、ちょっとした自己点検をFacebookで試みてみた。それを少し手を加えてここに載せたい。これは、一見単純に一研究者としての振り返りのようでもあるけれど、多分少し深い所では、一キリスト者(特に、唯一の創造者のもとに生きるという意識を持った人間)としての雑感という面が見え隠れしているかもしれない、と思う。

1 今の政治社会を問う専門・教育背景と、由来を問うことで解明しようとする自分の志向

「教養学部」という曖昧模糊とした学部を卒業し、「総合文化研究科」というわけのわからない名前の大学院に入った私。"late specialization"なる掛け声の中、「問題を見つけたらそこで専門性を都度的に作ればよろしい」という手法を愛しつつ、しかし同時に翻弄されてきた。そんな学問的放浪者であると感じる。ただ、その放浪には多分内的な理由があった。私はこの世界を生きる根源的なエネルギーのようなもののありかを探求したかったのだと思う。

そして学んでいくうちに、問題の一つが「事象に対する名づけの問題」であって、それはどんな学問にもその「定義」の中に出てくる問いであった。それはいわば旧約聖書の創世記第2章の人祖譚(神が初めにちり(アダマ)に息吹(霊)を吹き込むことで創造した人間(アダム)は、彼が置かれた「園」という「世界」の万象に名をつけたとある)にでてくるような古典的な問題でもあったが、私にとっては、「国際関係論専攻」という社会科学の分野からスタートしたものの、結局「由来の解明」という方法にこそ力があると見たことで、歴史的な方法に魅了されていった、という経緯でもある、と振り返る。

そんな自分は、前職の東京基督教大学では、宗教社会学的な方向性を持った博士論文を抱えつつ、神学部の中で社会科学分野を幅広く教える立場となり、行き詰る中で突破口を与えてくれたのは、ポスト構造主義の影響を受けた社会史的な研究群、特にイレート『キリスト受難詩と革命』の翻訳の仕事だった。だから、仕事ではずっと政治や国家や国際関係を論じながら、しかし自分の研究に命を与えてくれたのは、社会史的な研究であり、その土台にあったのはポストコロニアル研究やポスト構造主義哲学だったりした。

2 これからの20年を思いつつ、向きを変えてみる

そんなわけで「昔取った杵柄」ですぐに教壇で教えやすいのはフィリピンの政治だったり宗教だったりするのだが、私が捉えようともがいてきたのは、それを支えてきたと思われる歴史的な産みの苦しみ、そこにある愛憎や信不信、暮らしの息吹の積み重ねのようなものでもあった。また教員として期待されているのがビビッドな世界や地域の「今」であり、それは現在の阪大外国語学部ではなおさらそうであることを痛感しつつ、また、それにそれなりに応えるルーティーンを持って入ると自負しつつ、専門家としての自分が追求しようとし、長期的にはきっと学部においても大学院においても自分のオリジナリティを生かして貢献できそうなのは、やはり歴史なのではないか、と思うようになってきている。

他方で、歴史学というものが、どれほどの莫大な資料や過去の成果に基づく学問であるかも、この歳になればよく分かるし、若いほど無茶をする勇気もない。でも、それでももしあと20年頑張れるのかな、と思えるとすれば、あたかも青年のように青臭く、これと思った方にかじを切ろうと思って、今学期は宗教社会学、教会史、社会史、ナショナリズム論に力点を置いてあれこれもがいてみた。これがうまくいろいろと結びつき、いずれできればフィリピン語の授業にすらプラスのフィードバックが出るようなところまでいければ、と願いつつ、当面こんな感じで行こうかと思っている。

3 補足 「宗教」と「由来を見つめること」

加えて、「植民地支配以前に国がなく、外来の宗教や政治社会制度を用いて国づくりが進められてきたフィリピンという国」における「ナショナリズム」とはどう考えたら理解しやすいのかの解明を目指した私が、何故気付けば「カトリック教会の政治関与」という宗教社会学的なテーマに至ったのかとも問うてみる。それは恐らく、宗教に向かって掘り下げることで宗教的な由来が見え、またそこを透かして見れば、歴史の逆説みたいなものも見えてくるのでは、という直感(仮説?)を無意識に抱いていたからかもしれない、と今になって振り返る。

そう書いてみて思い起こすのは、フィリピン北部のイフガオに行った時のこと。土着の霊媒師とされるムンバキと呼ばれる人について、キリスト教宣教と文化の関係について詳しい知人が「この人たちこそ、多くの人々の苦境を聞き、それに応える経験の積み重ねを通じて、この地域の中の無数の思いを聞きためてきた要となる人であって、キリスト教の宣教をするに際し、異なる霊的な背景があるからと言って全否定するような態度を慎み、むしろこの人が持っている語りが基本的に生きるように接すべきだ」というようなことを言っていた。宗教には実に多様な側面があるが、そのうちの一つは、地域の御用聞き、よろず悩み相談であったと思う。もちろん近代化に伴う世俗化(つまり個々の近代的な専門領域の伝統的権威からの分離のプロセス)によって宗教の果たす役割は限定されてきているとはいえ、今もどうしようもなく人間の根底に存在する不可思議さや神秘をめぐって、宗教はなお人々の語りを聞き、答えようとする営みの積み重ねを宿していると思う。宗教学、宗教社会学、宗教史、キリスト教史、教会史などは、そういう意味で、否応なく「由来」に結びつくのだろうと改めて考える。

2012年3月10日土曜日

卒業生への個人的な祝辞

東京基督教大学、東京基督神学校の卒業生の皆様、ご卒業おめでとうございます。一言思うところを述べます。
 
 式のメッセージでは、卒業後皆さんが遣わされる先は荒野だ、と語られました。そうかもしれません。とはいえ、人の住まぬ荒野の中には、写真に残るべき美しい風景もあるでしょうし、一輪の花の美しさを愛で、人との出会いを喜べるのも、荒野でしょう。
 
 もし社会的な「荒野」を生み出すものが人間の罪深さないしは「業(ごう)」であるとしたら、それは人々が社会的な生活の営みをしているところ、どこにでも見出せるものでしょう。たとえ大学や教会が世間から青年たちをしばしかくまうための避難所の役割を果たしている面があったとしても、またキリスト教徒には神の聖霊がついているのだ、ということであるとしても、この全寮制キリスト教大学の生活空間の中にも、あちこちに荒野の影が見え、ところどころにそれは広がっているはずです。足元の荒野が見える人こそが、派遣された場所のどこが荒廃しているのかを見抜くことができるのではないか。それこそが罪という問題を実体的にとらえるキリスト教の学舎における学び(寮教育)の要の一つではないか、と思います。
 
 さらに、世間には悪魔の業だけではなくて、世界を統べ治めたもうはずの神の恩恵が厳然としてあり、それは人を分け隔てせずに、しかしある種の不思議さ、神秘性をもって存在しているはずです。そこにある闇を恐れる(恐れさせる)ことよりも、そこにある恩恵を見出しに踏み出し、踏み込んでいくことにこそ、信仰(神に信頼して生きていく)ということの本領もあるのではないでしょうか。
 
 だから、キリスト教は安全、大学は安全で、これから出ていく世間にはオオカミが待っている、という風に捉えるよりも、何をどう見抜いていけるか、そして恐れずに踏み出していけるか、そこではないかと思います。だから、私は皆さんを励ましたい。恐れずに、前に進んでいくのだ、と。そこが荒野かどうか、今から心配しなくてよい。あまり覚悟を決め過ぎなくてもよい。足元をしっかり見てこそ、前が見えてくるのではないかと思います。
 
 皆さんの前途に祝福を祈りつつ。

転任の報告

本日無事東京基督教大学の卒業式が執り行われ、私の人事についても正式な発表がありましたので、ここでもご報告いたします。
 私は大阪大学世界言語研究センターへの転任が内定しており、4月より大阪大学大学院言語文化研究科言語社会専攻の講師となります。
 東京基督教大学には引き続き非常勤の立場で関わります。東京基督教大学は11年にわたり自分なりに力を注いで労してきた、また学務全般にわたり多くを学んできた職場であり、特別の感慨があります。