ラベル 旧約聖書 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 旧約聖書 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2020年11月28日土曜日

聖書に親しむウェブページ、いくつか。

 インターネット時代になって、聖書に親しみやすい便利で分かりやすいウェブページも増えてきました。ここでは専門的なものではなく、あくまで聖書について基本的なことを確かめ、理解するのに助けとなるものを、動画を中心にいくつか紹介します。


1.聖書を紹介する動画


聖書プロジェクト BibleProject - Japanese

聖書66巻の各書の全体像を、図表や絵を活用して明快に見せてくれる。

OneHopeJapan

子ども向けの聖書のストーリーのアニメと、大人向けの本格的な新約聖書・福音書の物語のドラマ(セリフなどは意訳した聖書テキストのみという禁欲的なつくり)が視聴できる。

BibleCore バイブルコア

神学の専門家によるやさしい聖書各書の紹介。伊藤明生先生やランダル・ショート先生など私の前職の東京基督教大学の教員たちも登場する。

Superbook - Japanese - Full Episodes

聖書アニメシリーズ「スーパーブック」のエピソード1の全13話分(各話30分弱)が視聴できる。


2.読んだり聞いたりする聖書

パソコン版 聴くドラマ聖書

聖書・新改訳2017のドラマ朗読版。テキスト及び音読がある。

聖書 新共同訳

日本聖書協会の新改訳聖書。テキスト及び音読版がある。

リビングバイブル

聖書をわかりやすく意訳している。テキスト及び音読版がある。

2015年7月23日木曜日

黙想:人が惜しむこと、神が惜しむこと

今日は日本聖書協会の「愛読こよみ」から。

今日の聖句 2015年7月23日 生ける神

格別に印象に残ったのは、次の箇所だった。

 主はこう言われた。
 「お前は、自分で労することも育てることもなく、
  一夜にして生じ、一夜にして滅びた
  このとうごまの木さえ惜しんでいる。

  それならば、どうしてわたしが、
  この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。
  そこには、十二万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、
  無数の家畜がいるのだから。」

1.私が物惜しみをすることについて

私が今手にしている多くのものは、労せずに得てきたと思う。もちろん労して得た者も多くあるが、それもまた、多くの人たちの支えなしにはあり得なかった。それは、この聖書箇所の主人公ヨナのとうごま、つまり神が束の間彼に日陰を与えるべく育てた木と、根本的にさほど違わないはずでもある。

もちろん、社会的にはそれらはその人の所有である。奪われてはならない。それは近代自由主義、資本主義の社会の基本でもある。また、一人一人の生活を支える様々の所有物やアクセス権は、その人が生きていく権利を支える土台にもなる。おそらく聖書もそのことを否定しているのではないだろう。ここでも、ヨナがトウゴマを惜しんでいることを否定してはいない。ただ、それはしかし、そのようにして人を支える根源的な人格が存在し、その方が私たちに、それはそもそもでいればあなたのものではないでしょう? 受けたものでしょう? と問うている、ということになる。それは実存の根底を問う哲学的、あるいは宗教的な問いである。

2.神が物惜しみすることについて

そして、聖書はそのすべての根源、源であり、与え手であるところの神ご自身が、一つの10万規模の都市を惜しむと言っているのである。聖書は、ニネベはやがて滅びることを告げている。しかしそれは、邪悪な人々がいる街なのだから滅びて当然、というようなすっきりしたものではない。むしろ、問題だらけの都市(国家)について、その根源的所有者たる神は「右も左もわきまえぬ人間と無数の家畜(広げれば所有物、ということになるだろうか)」とも見る。優先されているのは問題の改善、解決である。

ヨナは自分たちの国の脅威であったニネベを憎んだ。そして自分たちの神であるはずの神が、自分のような、邪悪な街ニネベなど滅んでしまえ、と心の底から思っている愛国者を用いて、邪悪な道から立ち返りなさい、と告げさせ、あまつさえ、それで改悛の情を示したからと言って赦してしまう、ということが、どうにも解せなかった。しかし、神は、自分に免じて、そういう見方をしないようにしてくれ、と言っているようだ。

3.緊張関係にある隣国をどう思うかについての、一つの視点

国際関係には、古代以来現代まで、緊張がつきものであった。そしてそれに対処するに際し、クラシックな言い方でも、力の均衡を重んじる現実主義的な考え方、相互依存関係を促進して軍事よりも通商で関係改善しようとする考え方、世界の競争と貧富差に介入して平等を目指すことで争いを減らそうとする考え方など、いくつかのモデルが出され、取り組まれてきた。それ自体は専門的な議論として、きちんとなされるべきだろう。ただ、一つの国の人間として、緊張関係にある、脅威と考えられることもある隣国について、どう思うかについてのひとつの宗教的な捉え方のヒントはここにあるようにも思った。

私たちは、そういう国々が問答無用の邪悪な存在であるように思えるし、極端な人なら、滅んでしまえばいいのに、とすら思うかもしれない。そしてひるがえって自分たちはなかなかいい国だと思うかもしれない。

しかし、(1) 私たち(の国)が手にしている良いものの多くは、実は根本的には私たち自身が労したのではなく手にしているものが多い。

(2)相手の国もまた、神のものである。そして神から見るときには、その国の人々は経済運営や国の統治について方向性を見失って苦しんでいるのかもしれない。(もちろんひるがえって、自分たちの国もそうかもしれない)

(3)だから、少なくとも、私たちが多文化に対して、あるいは自分たちと異なる隣人たちに対して抱いている違和感や反発はそれとして、それと神の思いは異なる、ということを、神は私たちに理解してほしいのではないか。

曰く嫌韓、嫌中、嫌ロシア…或いは反日など。或いはギリシャみたいな国を突き放したくなる気持ちも。いったん嫌いになってしまったら、たとえ周りがそういうことの愚かさと幼稚さを指摘しても、なかなか変われないのかもしれない。しかし、キリスト者であるならば、少なくとも頭の片隅では、きっと神は私たちとは違うお考えをお持ちなのでは、という考えを大事にすべきだろう、と思う。

2015年7月19日日曜日

黙想:こんなふうに確信を持てる日は来るのだろうか…

今朝読んだ聖書の中で、特に日本聖書協会に掲載されたものについて。
2015年7月19日ダニエル書6:16-24

敬虔なダニエルはペルシャ王の覚えめでたい忠実な臣下であったが、周囲の妬みを買った。彼らはダニエルを陥れようと王をおだてて、王以外のものを礼拝しない、さもなくばライオンの穴に投げ込む、という勅令を出させた。それでもいつものように日に3回の祈りを欠かさなかったダニエルはライオンの穴に入れられたが、神によって守られた、という話。

恐らく、ライオンの穴に入れられたのに大丈夫だった、ということが奇跡として語られているようにも読めると思う。ただ、情景を思い浮かべるとき、私なら、もし今の瞬間ライオンが私を食い尽くさなかったとしても、ライオンを目の前にして、これからも大丈夫、と思えないのではないか、と思った。

結末の部分にこうある。

「ダニエルは引き出されたが、その身に何の害も受けていなかった。神を信頼していたからである。」

私は今、ひと月先の旅行の準備をしている。数日前にセブとマニラの旅館の問い合わせをしたが、セブの方は返事が来ず(数日待ってやり直す予定)、マニラの方は初日だけ宿がまだとれていない(その日は別のところに行く予定に変更)。まだひと月あるし、もしかして飛び込みで行ってもたぶん大丈夫だろうに、それでもなんだかとても気になるし、思い出すとそわそわしたりする。地域研究者にして、46歳にもなり、信仰暦も25年を超え、フィリピンにも何度行ったかしれない(セブの旅館の予約は初めてだが)のに、このビビりっぷりは、信仰がどうの以前のことかもしれない(笑)。

そんな自分を振り返って、地位をはく奪され、死の淵に追い込まれた彼が、「神を信頼していた」ということの凄みを感じる。以前この箇所の直前を読んだ時には、祈ったことが露見すれば死ぬ、と勅令が出た日に、いつものように(誰からでも見えるところで)祈った彼の凄さを思ったことがあったが、そこともつながるだろう。

一体このようないわば悟りの境地みたいな確信を持てる日が、こんな肝っ玉の小さい自分にも来るのだろうか、と思ってしまう。ダニエル書を読むと、彼は幼い日に祖国の滅亡によって外国に捕囚されたところから、度重なる試練を超え、その支配者バビロン自体の滅亡と新たな支配者ペルシャの統治、という激動を超えて生かされてきた。彼の人生は、自分も弱いかもしれないが、世の中の方も定めなきものであり、そういう世界の中に確かに人間を峻厳に、かついつくしみ深く支えてくれる偉大な存在を体感してきたという物語である。

だから、私も、ささやかで名もなき歩みではあるけれども、その中で神の方から現れてくださる、と期待して生きていけばいいのかな、と思ったりする。

2015年7月15日水曜日

「デイリーブレッド」で黙想:いろいろもやもや…(Meditating with "Our Daily Bread" - Not fully understood...)

Today I meditated with this.
今日の黙想はこちら。
Transformed Hearts
変えられた心

The scripture is:
Ezekiel 36:22-31
聖書箇所はこちら。
エゼキエル書36:22-31

My thought hovers around the repentance and salvation and renewal.  What is this unfinished process?  The meditation text didn't give me a satisfactory answer, though its description of the basic structure of things seems OK.
私の考えは、悔い改め、救い、刷新の間をぐるぐるめぐっている。この終わることのないプロセスは一体何なのだろう? このテキストに書いてあることでその答えは見えてこない。ただ、事柄の基本的な構造の描写はちゃんとできてはいると思うのだけれど。

The problem?  You know, the Israelites here were already chosen people, and it means that they were to be renewed and sanctified and differentiated from other people.  And look, here we find Israelites judged just like other people and then given promise for renewal - again.  So what would this promise mean, if the previous one was fruitless because of the sin of Israelites?
何が問題か、というと、今回のテキストで、イスラエル人たちというのは、既に神に選ばれた人たちであって、それはつまるところ、既に刷新され、清められ、他の民とは異なるものとされることになっていたはずだ、ということだ。それがどうだろう、ここでは罪を犯して裁かれることにおいてほかの民と何ら異なるところなく、再度刷新の約束が与えられている。もしイスラエルが罪を犯したから先の約束が結実しなかった、というのなら、今回の約束は何だということになるのか?

Of course the main point is that all through this process, there is still the Sovereign God who wills the renewal of this land through the chosen people, and they are to begin again and again after failures, with the new beginning and a new heart as gift from God himself.  So it is not the great people that matters, but the great God working with terribly mediocre and so-so people that matters.
もちろんこの箇所の眼目は、これらのプロセス全体を通してもなお、主権的な神がおられて、この方はこの世界の刷新を、ご自身が選んだ人々を通してもたらそうと考えている、ということだ。そして他ならぬ神ご自身が新たなスタートと新たな心をお与えになることをで、彼らは何度も失敗しても、何度でもやり直す、ということだろう。だから、大事なのは偉大なる人々がなにかを成し遂げるということではなく、ゲンナリするほど平凡な連中と共に偉大な神が働いているということがミソなのだろう。

Then, the promise of renewal?  Is this temporary?  Will people go back simply to the past darkness after this, again and again, just as the history of the Church has shown?  Or will there be any alternative way that will lead to the flourishing of justice all over the world?
では、刷新の約束はどうだろう。これは束の間起こるだけで、そのあとにまた以前の闇へと戻っていくだけなのか。教会史が示してきたとおり、そういうことが何度もあるだけなのか。それとも、それに代わる道があって、世界中に公義が満ち溢れるところに向かっていけるのか。

***

By the way, as I listen to both Japanese and English version, what is curious is the differences of expressions or styles of casual devotion between these two.  If you listen both of them, even if the contents of the texts are virtually the same, the tone of the voice, music used are in a sense very contrasting.  In English version, the music is rock with electric guitar and begin with robotized male voice, while Japanese version is with much lighter music with piano and strings and the narrator is a lady.  Both sounds natural to me - meaning that may represent how I understand Japanese and Americans pray.  We cannot go without culture yet it would be good to be somewhat conscious of that and to avoid making specific type a must.  We would be more fruitful if we are open to different types of cultural expressions of devotional spirit.
ところで、日本語版と英語版の両方を聞いていて興味深いのは、カジュアルな黙想に関する表現方法の違いである。聞いてみると、テキストの中身はほとんど同じだが、声のトーンや音楽がある意味とても対照的だと思う。英語の方はエレキのロックで始まり、最初にロボット風の音声で始まる。日本語の方はピアノとストリングの軽やかな音楽で、ナレーターは女性である。どちらも自然に聞こえてしまうのは、私が日本人やアメリカ人がどう祈るのかについて持っている理解がそういう感じだからだろう。私たちは文化なしでは済まないが、そのことを自覚して、特定のやり方でなければいけないとすることを避けるようにすべきだろう。黙想的な霊性の文化的表現についてはさまざまのタイプのものに開かれている方が実り多いと思う。